昭和62年 越美北線(その3)

a0322896_13000582.jpg










































人生には上り坂と下り坂以外にもう一つ坂がある。その坂は「まさか」ゆめ、そのことを忘れずお過ごしなされ

度々、耳にするアフォリズムである。そしてこのアフォリズムを噛みしめるのはまさに、まさかの事態が起こった時、劣等生で成績下位の位置には慣れていたが、さすがに落第はまさかの事態。正直言えば、衝撃が大きすぎてその事実を知ったときどうだったか憶えていない。そして、それから直ぐに、こんどは虫垂炎が発症。薬で散らすには症状が進んでいて入院して手術する羽目になった。

手術そのものは無事成功したが、術後の管理が必要で盲腸にしては長く2週間の入院。退院してきた時はかなり体力が落ちていて2階への階段を上るのも難儀する有様だった。またこの入院期間がちょうど新学期にまたがっていたので友達の幾人かは落第のショックで僕がドロップアウトしたのではないかと思ったらしい。

まあそう思われても仕方ない状況だったがでも今から思えばこの入院で救われたところがあったかもしれない。落第という現実を日常ではなく非日常的な入院生活という中に逃げ出すことができたからである。

ただ、今、これを書いていて気がついたが、この時、親の気持ちはどうだったのだろうか。親にしてみれば学校は落第、それはそれで怒りや失望、心配、様々な気持ちが交錯しただろう。そして更に今度は入院である。盲腸の手術とはいえまさかはある。とりあえず学校のことは措いて無事であれ、そう強く願ったのだろうな、手術前の両親の面差しを思い返すとそんな感慨が浮かぶ。当事者である自分はもう現実に圧倒され翻弄されていて他人の気持ちを推し量る余裕など全くなかったが、30年が経ち、ようやくあの頃のことをこうして振り返ることができるようになった今にして、親の気持ちというものに想いを馳せる余裕もでてきたということか。

閑話休題、その「まさか」がそれこそマサカ、横浜市内のバス停にあるとは思わなかった。

a0322896_13131847.jpg















ところで、この落第、入院の時期に前後して僕はどんどんサッカーに傾斜していった。

病も癒え、気持ちも少し持ち直した頃にメキシコでW杯が開催された。マラドーナの5人抜きが演じられたアルゼンチン対イングランド、雨中の激闘、点の取り合いの末、4-3でベルギーが競り勝った旧ソ連との対決。後に史上最高の試合と称されることになるプラティニのフランスとジーコ・ソクラテスのブラジルとの延長PK。後世に語り続けられることになる試合の数々に酔いしれた。それらの試合はビデオに取ってその後何度も飽かずに見続けた。

けれども、そこに我が代表はいない。後少しで同じ空の下に、希望と期待を持って心から応援できる母国の代表チームを見ることができた、もう少しの距離だった、

残念さもあったが、見えてきた世界の背中に追いつく期待感を持った。そう期待感、その気持ちは明日を信じることでもある。落第して惨めな気持ちでいた自分の心にも、少しづつ、そしてまだ行きつ戻りつでもあったが、希望と復活を期す気持ちもサッカーの試合を見ることで生まれてきた。
a0322896_13131547.jpg
















ただ、その時期、足下の日本代表チームは少しばかり揺れていた。敗れたりとはいえ我々の代表チームという誇りを持つことができたチームを率いた監督の森孝慈さんであるが、さらなる高みを目指すために続投を要請された折、監督のプロ化を要求し当時の協会にその考えが容れられないと続投を断り退任してしまった。今と異なり、昭和のスポーツ界はある種のエリート意識に支えられたアマチュアリズムが主流だったのである。

誰もがその手腕を認め、そしてさらなる躍進を期待できる指揮官がいなくなったってしまった。正直、何やっているんだという怒りというか落胆というか、どうにもならない感情を当時抱いたものである。

そして、森孝慈監督の後任として代表監督に就任したのが、石井義信、その人だったのである。

# by michikusajinsei | 2018-05-30 07:20 | Comments(0)

昭和58年 広島電鉄

a0322896_05133513.jpg














先週末、流れていたTwitterのタイムラインで強く印象に残ったつぶやきがあった。

「旧い定食屋で昼飯を食べていた。その食堂にあるテレビが西城秀樹逝去を報道すると、明らかに自分より年上のおじさんが見事に全員動きを止め、画面を見つめていた。みな何かを思い出しているようだった。本当のスターだと思った」

僕もまた同じだった。エレベータの中にあるテレビを何気なく見ていてそれを知ったとき、固まってしまった。そして彼がいた時代の在りし日々のことを思い返していた。

享年63、僕が51歳。この歳になれば干支一回りはそれほどの年齢差ではない。ただ彼が過ごしてきた、あるいは演じてきた年月と自分たちの成長とにあった年月の差は実際の年齢差ではなくて原点である昭和40年代での出会いにあるように思えてならない。

彼のデビューは昭和47年、僕が幼稚園の頃であるである。「楽しい幼稚園」或いは「小学校一年生」か。うろ覚えだが、そういう幼児向けの本に郷ひろみや野口五郎などと共に掲載されていた。そして考えてみれば、それが人生でスターという存在を知った最初だった。爾来、幼児から少年そして青年期まで我々の世代が成長していく日々、彼はずっとスターだった。

a0322896_05134421.jpg















ただいつの頃からだろうか、たぶん脳梗塞に倒れる少し前、今世紀初頭くらいからその姿をテレビで見かけることは少なくなっていたし、正直言えば僕の中でも特に思い出すことはなかった。しかし流れる月日の中で、彼のことをもう一度意識する、あるいは見直す機会があった。それは数年前、テレビを見ていて脳梗塞の後遺症かもうヤングマンが踊れず、でも衣装だけは往時のまま立ち尽くして歌っている番組を偶然目にしたのである。

歌のリズムとダイナミックな振り付けとの一体感が魅力のこの曲をいわば片翼がもがれた状態でなお代表曲として歌うことを望まれる。その姿は衰えたという生易しいものではなかった。見てはいけないものを見てしまった、そういった感情が湧き上がった。しかし同時にそこまで追い込まれながら、傷ついた姿をさらすことになっても逃げることなく舞台に立つ、なにか近寄りがたい畏怖というか威厳に満ちた姿、力強さというものがそこにあった。人の姿として何か大事なものを見た、そんな風にも感じた。

あいつはできるな、やっぱりたいしたことがないや、我々のほとんどはそういった他人の評価で生きている。他人の評価で光を与えられ、また時には影も作られる。しかしその中でわずかな人々は自ら光を発して他人の評価というものを超越していく、それがスターという存在。その意味で西城秀樹はまさにスターそのものだった、特に彼のファンではない自分にしてもそう思う。

平成が30年たっても、やはり自分の周りの過半は昭和生まれである。そして自分にとって30年前の時代というのはついこの前、その意味で自分の中では昭和は遠くなった、そういう風には思えない。とはいえ、見慣れた風景、人々がいつのまにか消えていく。ただそこにあるだけ、いるだけで、その時代、その世界に戻れる存在が消えていく。改めて思えば昭和40年代、50年代、自分の幼少年時代、これは確かに遠くなった。誰もが思い出として共有し、それぞれの経験、実感として語り合えていた記憶の世界から記録として語られる歴史の世界になっていく、そんなことを強く感じさせる彼の訃報だった。

合掌

# by michikusajinsei | 2018-05-23 07:00 | 広島電鉄 | Comments(2)

昭和62年 越美北線(その2)

a0322896_07163137.jpg















4月26日、また一人、自分の青春の風景で思い出に残る人が世を去った。

石井義信。昭和61(1986)年から62(1987)年にかけてのサッカー日本代表監督である。

前にも書いたように僕は大学を落第しているのだが、実はそれは大学1年の成績で決まった。しかし通っていた学部の規定だとそこで留年とならずに2年にはそのまま進級させるが、3年には進級できずにもう一回2年生を履修しなさいという制度だった。成績が悪かったことを棚に上げていうのもなんだが、これは精神的にはなんとも堪える制度である。

この落第生という立場の2年間は精神的に本当に苦しかったが、最初の大学2年生時は特に修羅場だった。受ける授業も同級生もほぼ同じ。彼らとは普通に授業を受け談笑しているが翌年になるとその友人達は普通に進級していく、しかし自分は進級できない。さらに言えばこの2年時の成績がいくら良くても1年の時に落とした単位のため自分は進級できないのである.。

いわば予定された敗北を日々突きつけられ、それを噛みしめるような1年だったのである。
a0322896_07152823.jpg















とにかくじっとしていられなくて方々に出かけたのは国鉄最終日の思い出とともに書いたことがあるが、そうは言っても時間もお金も限度はある。第一、いくら旅行の費用はバイトで賄っていたとはいえ落第しても黙って学費を負担してくれている親への遠慮というか申し訳なさという気持ちも強かったから、実はこの一年はあまり遠出をしていない。ちなみに北陸によく出かけたのは、そんな外に出たい気持ちと、この状況で果たしてそんなことをしていいものだろうか、そういった相反する気持ちの交錯する中でそれらがなんとか折り合いが付く場所が北陸だった、白状するとそんな事情もあったのである。

それはともかく、そういったいたたまれない針の筵に座っているような日々の中で僕の心を慰謝してくれるものが鉄道の他にもう一つあった。

それがサッカー、別してこの2年間の日本代表チームだった。

この前の年、日本代表はメキシコW杯予選を戦い最終予選まで進出、最後に韓国に敗れたが攻守にバランスのとれた好チームだった。個人的には丁度受験が終わってホッとした気持ちで初めて見に行ったホーム初戦の北朝鮮戦があまりにも劇的な戦いだったため、急速に興味が増してそのまま最終戦の韓国戦まで日本代表を追いかけていった。

a0322896_07151820.jpg















追いかけたといっても全ての試合をこの目で見たわけではない。ホームゲームは実際にスタジアムで応援したが、アウエーでは新聞やテレビニュースでの断片的な情報でなんとか活躍を知ろうと躍起になった。

今と違って当時のサッカーは全く人気がなく、ホーム初戦、旧国立競技場での北朝鮮戦では観客がそもそも25,000人で肝心の日本代表の応援は5,000人。今でも憶えているが、スタジアム全体を飲み込むような北朝鮮応援団の迫力、対して少数ながらというか少数ゆえに結束していた日本代表応援団が応援エリアを分けずに正に呉越同舟で隣り合わせ。互いになるべく目を合わせないようにしながらも両者共に殺気を漂わせ騒然とした雰囲気、一触触発の危険性を孕んだ異様な緊張感があった観戦は後も先にもこの時だけである。

そして一月後の4月に平壌で行われたアウエーは更に事態は悪化。史上に残る完全アウエー。選手団以外は報道関係者のみで日本人サポーターは観戦を許されず、6万人とも8万人とも伝えられた観衆は文字通り全てホーム北朝鮮の応援である。もちろんテレビ中継はなし。どうなることかヤキモキしながら深夜のニュースでようやく0-0で引き分けたという情報が入った時の安堵感を昨日のように思い出す。

うって変わってそれから数週間後、五月晴れの中で行われたホームのシンガポール戦。爽やかな薫風と青空の中、一次予選勝ち抜きの祝祭的な喜びと解放感に包まれた国立競技場。試合もゴールラッシュで5-0の完勝。

a0322896_06461644.jpg
















2次予選は予想外にも中共を破った香港、当時、英国租界の香港はそ独自に代表チームをもっていたが、試合会場はこの試合がこけら落としだった神戸ユニバ記念競技場。開始直後にマークがずれてキーパーとフォワードが一対一なったがシュートを打たせず、その場面の直後、こんどは日本が同じような場面でこちらはきっちりとゴールを決めるといった感じででまさに威風堂々の3-0で貫禄勝ち。アウエーゲームも疾風のようなカウンターで2点、得点は許したけど、PKを防ぎ2-1と連勝で勝ち上がりを決定。そして思い返せば対香港の二試合がこのチームの頂点だった気がする。勝つための歯車が全て噛み合い滑らかに回転するが如く試合が進んでいく。気負いも驕りもなく淡々としてはいたが、弛緩することなく自信にあふれた力強い一つ一つのプレーに逞しさが感じられなんて言うのだろう勝者の風格とも言うべき頼もしい雰囲気が選手たちの周りを包んでいた、そんな印象を感じられたならなかったのだ。
a0322896_06505748.jpg

















そして迎えた最終予戦、昭和60年10月26日、当時のサッカーファンにはあまりにも有名なアナウンサーの中継第一声「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」

現場にいたので、その放送は聞いていないが試合開始を待つ間、確かにそんな気がしていた。不思議と負ける不安が湧いてこず、勝てるんじゃないだろうかという漠然とした期待感が僕だけじゃなくスタジアム全体を覆っていた。

試合そのものは敗戦、でも後に伝説となる木村和司のフリーキックは自分がいたサイドのゴール真横、まさに眼の前で決まったし、後半もコーナーキックから主将の加藤久のバックヘッドはクロスバーを叩いて跳ね返るなど同点のチャンスはいくらでもあった。後に現場の選手たちは韓国に攻めさせられている、ボールを持たされていなされている感じだった、と述懐しているが同点目指して攻勢が続く後半、観客席では最後まで期待感が失われずに応援が続いていたし、また僕も声を張り上げていた。

a0322896_06485125.jpg










































結局、この予選は突破できなかったのはご存知の通りだが、この年の3月から11月まで足掛け9カ月のロード、それは受験が終わりそれまでの中学高校時代の秩序(序列と言い換えてもいいが)からの開放感と新しい未知の世界を探す高揚感を思う存分味わえた。アナウンサーの言葉ではないが、目の前は曇り空ではあるけど、確かにサッカー日本代表の未来、そして自分の未来は、その曇り空の向こうすぐに青空がひろがっている、そんな気がした旅路の終点だった。

# by michikusajinsei | 2018-05-15 12:29 | 国鉄 急行 | Comments(0)

平成30年 京急横浜駅

a0322896_22365124.jpg
投稿をサボり気味でしてが、さらにパソコンが壊れてしまいました。

そうなると、無理にでも更新しようとする気持ちが出てくるのですからおかしなものです。

写真は、京急の駅ソバチェーンである駅めんやで食べたおろし天そば。

駅ソバの醍醐味は油の塊のような冷めたかき揚げを汁に浸して、油のまろやかさで醤油のカドが取れたそばつゆを飲むことにあると信じてやまないですが、大根おろしも同じく刺激が中和されかつ油のクドさが消えて意外なうまさですね。

a0322896_07153714.jpg

















それにしても駅ソバがこんなに美味しくなっていいのでしょうか。

寿司も天ぷらもトロも、もともとの安っぽいカジュアルな料理が高級化していったそうですが、駅ソバも果たしてその道を辿るのでしょうか。これからどんな進化や工夫を見せてくれるのか、そんなことを感じてしまいました。

# by michikusajinsei | 2018-05-09 22:30 | 横浜 | Comments(0)

昭和62年 越美北線(その1)

a0322896_06395149.jpg















我が青春の旅路において、もっとも長く過ごしたところといえば、ここ福井駅である。

前にも書いたが当時の周遊券で関東からもっとも割安に旅行できるところが北陸地方、それは周遊券の額面が安いということもあったが、夜行急行や大垣行きを使って目的地まで行けたこと、さらにこれが実は決定的だったのだが深夜停車の列車がかなりあったため福井や金沢という北陸本線の大駅は終夜営業していたので待合室が夜通し開放されておりそこで夜を明かすことができた、つまり宿泊費がかからなかったからなのである。

中でも福井駅は街のサイズが北陸3県の県都の中で一番小さかったからか、深夜に待合室を利用する乗客も少なくて寝る場所を確保しやすかったし、また安くて美味しかったうどん屋さんが駅前にあったこともあって、僕にとって北陸路のいわば定宿のようなところであった。

とはいえ、殺風景な待合室。今から思えば、パソコンもスマホもない中でどうやって時間を潰したのか。思い出してみると待合室にもテレビはあったし文庫本は今よりも割安だったので1000円で数冊買えたからそんなものを見たり読んだりして時間を過ごしていた。

a0322896_06395487.jpg















そんな福井駅の滞在、いくつか思い出がある。

その頃、ハレー彗星の地球接近が話題になっていて、たしかその観測衛星を当時のEC(ヨーロッパ共同体)が企画して飛ばしていた。その実況中継をこの福井駅で聞いていたのを覚えている。実はこの時は大学で落第が決まった直後だった。もう逃げるようにして旅立ち、誰にも会いたくない気持ちで駅の待合室で過ごしていたのだが、あの時のなんとも言えない心細さ、敗北感と奇妙な解放感が入り混じった不安定な心理状態とハレー彗星観測のテレビ中継を追いかけていた記憶は今思い出しても、ちょっと苦味を感じるものがある。

また一度、女衒(?)から逃げ出した女性を捕まえるために追っかけてきた男たちと彼女を助けようとした人との間で大立ち回りを目にしたこともある。「どこかに隠れたぞ!」「あ、いた。追いかけろ」なんて怒号は飛び交っていたが、どうにも殺気というものが感じられずドタバタしているだけ、またそこに「おい、お前ら、若い子を捕まえてどうすんだ!」とどうみても関係ないおじさんが正義感から加勢したりもしたが、なんというか騒動の割には追う方にも逃げる方にも切迫感が感じられず、まるでドリフのコントを見ているような不思議な光景だった。

まあ、そんな珍事もあったが、ほとんどの日はただ静かな夜の時間が流れるだけ。やがてテレビも終わり、本も読み飽きるといつとはなしにうつらうつらと眠っていた。そして夜が明け短い眠りから覚めると、その日の目的地までまた列車に乗って出かける、それが北陸の旅における僕の日常。訪れた年や季節が変わっても繰り返された旅の記憶である。

# by michikusajinsei | 2018-04-25 06:54 | 国鉄 急行 | Comments(4)