昭和60年 筑豊(その4)

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運炭列車、鉄道の全盛期の時代に憧れていた自分が見たかった列車のかたちである。

僕が高校から大学にかけて、つまり鉄道写真を撮り廻っていた時代、それは国内炭鉱への挽歌が奏でられた時代であった。国内炭鉱生き残りを賭けた最後の政策とも言える第7次石炭政策答申が出されたのは高校一年の昭和57年、そしてプラザ合意による急速な円高で劇的な輸入炭の価格低下を受けて国内炭鉱の安楽死路線を決定した第8次石炭政策答申が昭和62年で2回目の大学2年の時である。

逆に言えばこの5年間、国内炭鉱が生き残り、あるいは有利な閉山条件を求めて揺れていたいた時期でもあった。だから運炭列車に憧れはあったけれども、物見遊山のしかも学生が炭鉱鉄道、あるいは炭鉱の町という現場には脚を踏み入れるのに躊躇する粛然とした雰囲気があった。

特に北海道の炭鉱は経営の厳しさもあるが、なによりも爆発事故の記憶が新しい時期である。いくつか運炭鉄道は残っていたが、自分が訪問したのは、唯一、旅客営業を行っていた三菱南大夕張だけである(その時の記録はhttps://anosyaryo.exblog.jp/20705701/)

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一方、おなじ産炭地の九州はどうかというと、筑豊の炭鉱はすべて閉山していた後であったが、三井三池、三井松島という平成年代まで生き延びた炭鉱が健在だったので国鉄本線上でそれなりに運炭列車というものを味わうことができた。

その中の一つがこの写真である。

運炭列車が健在と言ってもそれだけで編成が仕立てられるほど供給量はなかったようで、この列車のように普通の貨物列車に併結されて運用されているのが普通だった。

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この車輌、セラという記号。貨車のそれは結構、運ぶもので表されるものが多い。このセは間違いなく石炭のセであろう。続いての表記は重量で貨車の場合は軽いものからムラサキの一字がつけられるので軽量級の車輌、北海道の同種の車輌はセキといわれるタイプだから重量級、おなじ国内でおなじものを運ぶのになぜこうも好対照な車輌になったのか不思議であるが、九州へ旅した時、一番見たかった車輌の一つであった。

by michikusajinsei | 2018-04-02 07:15 | 北九州 | Comments(2)

昭和60年 筑豊(その3)

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土地の名前が呼びさまず時代の記憶というのはあると思う。

平成も30年経った今、筑豊という名前を聞いてもそれに何がしかの時代の風景が伴うことはない。実は今、自分の仕事で三池炭鉱の炭田跡を利用して二酸化炭素を地中に封じ込めるプロジェクトが行われているのだが、実務を担当している昭和末葉から平成初頭生まれの世代にとってそれはただ仕事をしている地名以上のものはないようだ。

しかし昭和という時代に成人を迎えた年代にとって三池や筑豊、特に筑豊という語感の言葉の響きとそれが想起する土地や時代の風景はは大げさに言えば近代の熱さを呼び覚ます独特の香りがあった、そんな風に思えてならない。

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ただそうは言っても、筑豊、というより国内炭が日本のエネルギー供給の主役だった時代は自分たちの世代にとっても記憶のない時代。総資本対総労働といわれたその三井三池の労働争議があったのは昭和35年、自分たちが生まれたのは昭和40年代初頭である。そして自分たちが時代の風景というものを我が事として意識できたのは昭和50年代以降、最後まで残った貝島炭鉱の閉山が昭和51年だから筑豊炭田の閉山はその狭間の10年間、すなわち昭和40年代である。生きていた時代ではあるが自分たちにとって流れていたその時代の記憶は断片的でしかない。

その意味で筑豊の光と影は現実世界ではなく歴史的事実の中の世界であったことも確かである。
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ただ断片的な記憶、いや記憶というより空気感、肌感覚といったものだろうか。ときおりそんなものが蘇ることがある。

それは幼いとはいえ同じ時代の空気を無意識に感じていたからなのだろう。その時代の大人たちの会話、テレビ番組、ニュース、知らず知らずのうちに流れてくる時代の息吹。昭和45年の日本人の平均年齢は30歳。平成が終わろうとする今のそれが46歳であるからなんとも若い。いや熱いというべきか。学生運動にしてもモーレツと形容された働きぶりにしてもその若さ、熱さが溢れるエネルギーとなってうねっていた時代、あらゆるところに人が溢れかえって、その人の波が生み出すエネルギーのすさまじさ。そんな熱気をあの時代を思い返すと幼いなりに感じていたのである。
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鉄道趣味の世界もそうである。

当時の雑誌を見るとSLブーム、消えゆく蒸気機関車特集花盛りであるが、紙面から立ち上る印象は愛惜よりも消えゆく蒸気機関車を求め各地を旅するエネルギッシュさである。あるいは蒸気機関車のもつむきだしのエネルギーの塊への憧憬か。そのエネルギーの原動力たる石炭を生み出していたのは石狩炭田を擁する北海道夕張と、ここ北九州の筑豊炭田であり三池炭鉱である。両地方とも昭和という時代には今とは比べ物にならない存在感があった。

交友社のSL No.5に載っていたD51 No.10のストーリー「筑豊の猛烈なめくじ健在なり」、月刊時代のプレス・アイゼンバーン「レイル」創刊号に掲載された牧野俊介さんの「貝島炭鉱撮影記」またこれは読み物でないけど、おなじくアイゼンバーン刊「とれいん」初期の模型コンテストで特選に選ばれた澤田節夫さんの三井三池のジーメンス電機。また実物の鉄路でも当時は筑豊本線にも寝台特急が走っていた。新大阪発のあかつきがそれである。

現実に走っていたこの列車も含めこれらで自分が見た風景は一つとしてない。しかし、掲載されている雑誌や書籍、時刻表といったものを繰り返し読みあるいは眺めている中で、昭和の筑豊という物語が少しづつ形成されていったのだった。

by michikusajinsei | 2018-03-23 07:20 | 北九州 | Comments(0)

昭和60年 筑豊(その2)


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横浜は三寒四温というより寒の戻りという言葉の方がしっくりくるこの数日の天気、前の投稿ときは春の到来を予感して選んだがいささかそれは早かったか。ただ花に彩られる街の景色は間違いなく増えてきて、やはり春は間近であるようである。

さて、それはともかく花と鉄道、写真を撮っていたころその昨品作りを何回か試みたが中々難しかった。自分が鉄道写真を撮る動機は、やっぱり格好良く車輌を撮りたいという気持ちが一番。特に好きな車輌の時はその気持ちが強い。

逆にそう強い関心がない車輌の時は、どちらかというと背景を重視した写真を撮ってきた、今から思えばそういう態度で写真を撮っていた。

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おまけにに鉄道写真好きはいっぱんにパンフォーカスで車輌を捉えるのが至上と思っているから、背後をぼかすことで前景の美しさを強調する花の写真の定石というものに興味がなかった、というか知らなかった。

写真というものは、煎じ詰めれば何を写したいかである。正にその焦点が定まらないと散漫な写真の出来上がりとなる。あるいは画面がごちゃごちゃしてスッキリ感がない。テクニック以前の心構えというか、なぜそれが定石なのか、そういった基本をもっと知っておけばよかったなあ、と今さながらに 30年前の未熟さを思い知るのであった。

by michikusajinsei | 2018-03-13 07:19 | 北九州 | Comments(0)