平成4年 山陰本線(その2)

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その時代、平成元年からその平成7年、それはバブルという真夏の季節が暮れようとする、もっと言えば近代日本という社会が歩んできた成長という季節が終わろうとする時期だった、そんな気がするのだ。

その感覚はなんと言うのだろう、浮かれたようなざわめきが去り軽い寂寥感がありながら盛りの華やかさも残る、非日常の躁状態から日常の落ち着いた状態に戻るほんのわずかの時間、そんな雰囲気だった。

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それは日本社会もそうだったし、僕自身もまた同じだった。

確かにバブルの熱気は去ったが、景気は低迷しているというより巡行期、一旦、落ち着いて調整し、数年後にまた次の上昇があるものと思っていた。

僕自身で言えば、成績が芳しくない劣等感、生意気なことを言っても親のすねかじりで半人前でしかないやるせなさなどからどこか居心地の悪かった学生時代が終わりそれまでの環境をリセット。新たな世界への挑戦という気持ちだけでなく、そういった思うにまかせなかった学生時代から捲土重来を期す、そんな気持ちを抱いていたものである。

そして入った会社はバブルの余韻のために仕事も多くて、会社生活に慣れてくると自分の仕事もまた多くなる。夜の9時過ぎに残業が終えて会社を出るのも当たり前だった。快い疲労感に包まれて通用口を出る、振り返ると不夜城のように全ての階の電気が煌々と照っている。その輝きは活気とそれがもたらす成長のシンボル、そんなふうに感じていた。

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自分ももちろん若かったが、先輩たちもまたみな若かった。仕事を終えてから夜の街に繰り出すのが週に何度も続く日々だった。

踊り疲れたディスコの帰り
これで青春も終わりかなとつぶやいて
あなたの肩を眺めながら
痩せたなと思ったら泣けてきた

ボロの「大阪で生まれた女」の出だしである。

そんな日々、少し上の世代、当時30代の先輩たちとカラオケスナックに繰り出すと誰かが必ずこの歌を歌っていた。

自分自身も含め同級生たちの多くが大学をでて就職したのは平成元年と2年。日経平均が史上最高値を記録したのは平成元年の大納会である。まさにバブルの頂点の時期に就職したわけだが、学校出たての自分たちにはとても眩しくキラキラと映ったその活力も、バブルの渦中を「大人」として経験した彼らにはどうだったのだろうか。

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頂点に向かって燃え上がるような熱気、それはもう去ってしまったのではないか、そんな予感、かといって完全に燃え尽きたわけでもなく、まだその余熱、名残りを感じている、そんな空気感をまとった時代、そんな風に無意識にも感じていたのではなかったのだろうか。

そして、その雰囲気を熱い恋の季節が終わった男と女の世界に置き換えて歌ったこの曲に時代精神との共鳴、過ぎ去ろうとしている自分自身の青春の熱気への挽歌、そういう気持ちを込めてこの曲を歌っていた、30年が経ち、カラオケスナックで彼らと過ごした日々を思い返すとそんな感慨に襲われる。

この歌が作られたのはその頃から10年ほど遡る昭和54(1979)年である。しかし今振り返ると、時代の雰囲気に寄り添っていたのは作られた時よりもこの時代の方ではなかった、そんなふうに感じてならないのだ。

by michikusajinsei | 2018-12-03 07:09 | 山陰本線 | Comments(0)

平成4年 山陰本線(その1)

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「平成最後の夏」

虚をつかれたが、言われてみれば確かに今年の夏はそうだった。一つの歴史的な空間があらかじめ予定されて終わる瞬間。考えてみればそれは日本のみならず世界的にも初めての経験なのかもしれない。

なぜなら区切りはいつも唐突に起こる。静かに流れる大河が、急激に速度を増し、一気にその瞬間が訪れる。

昭和の終わりも、人の寿命に起因するものだからいつかはという想いは誰にもあったが実際に昭和天皇が病に倒れた瞬間は、その直前まで公務についておられたから不意をつかれた感があったし、冷戦という時代の終わりもベルリンの壁が一箇所崩された瞬間、奔流のようにそれまで堅固にそびえているように思われた壁が一斉に壊され、東西の人々が手を取り合い合流するのを目にした。

しかし時代の変化、それ自体はそんなに急には見えてこない。昭和から平成への改元は1日にしてなされたが、社会の営みはそれ以前と変わらずに淡々と過ぎていった。
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特に昭和という時代は、戦前戦後という二つの歴史空間をまたいだ60余年という年月の長さに相応してまたその転換はゆっくりとしていた。当時を生きてきた感覚でいえば、昭和64年1月7日に日は没したがその夕映えの輝きはしばらく続き、その中で我々の社会生活は営まれていた。

しかし振り返ってみると、時代の転換点はやはりあった。昭和という時代、その残照はいつ消えたか。

実感としていえば、それは平成7(1995)年である。
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この平成7年と言う年、阪神淡路大震災、サリンテロ、警察庁長官狙撃事件と事件が相次ぎ、1ドル80円を切る円高と止まらない資産価格のため進まない不良債権処理が相まって誰の目にも経済不況が明らかになり、就職氷河期という言葉が囁かれていた。そして前代から言えば戦後50年という節目の年でもあった。

実はこの年、僕はカタールに赴任していてその頃の日本人が、あるいは日本社会が味わった不安感、そう言うと言い過ぎかもしれないが、いったいこの国はどこに流れていくのだろうか、という不安定な気持ちを完全には共有していない。大震災の時はカタール、サリンテロの時は帰国便に乗るための乗り継ぎで滞在していた香港でその報せを聞いた。ホテルで朝、何気なくつけたテレビでフランス語が流れていた。何もわからなかったが女性アナウンサーがただならない様子でニュースを伝えていた。そして何回も同じ言葉を繰り返していた。それは数少ない僕の知るフランス語の単語「プワゾン」毒という意味の言葉である。そして東京の風景が映し出されていた。

慌てて、少しは内容の把握できる英語のチャンネルに切り替えてみると、化学テロが行われたらしいということが伝えられていたが混乱状態でそれ以上のことはわからず、その翌日、成田からの帰路のバスの中で「ここで何か起こったらどうしよう」と考えて、とても心細かったのを憶えている。そして直後に起こった国松長官狙撃事件、その報が伝えられた時、父が「なにが起こっているんだ。日本は壊れるのか」と思わず叫んでいた。

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確かに昭和40年代も様々な事件が起こった。当時の自分は幼かったからその衝撃をわかっていたわけではない。それでも三菱重工ビル爆破テロでガラスが刺さり血まみれになった人の写真を新聞で見た時は衝撃を受けたし、浅間山荘事件もその時、それとは知らなかったが後から思えば祖母と一緒にテレビで見ていた。

しかし昭和という時代は混乱が起こってもそれを受け止める柱石とも言うべき人々が大勢いた。というより昭和戦後という時代は前線と銃後の違いはあれど戦中戦後の死線をくぐり抜けてきた人々が担っていた時代である。土壇場での性根の座り方というものであろうか。その重さが戦後世代に批判されていたわけだが一方で「戦争に比べればたいしたことがない、動じるな」そんな声が伝わってくるような頼もしさがあったのも事実である。

しかし歳月は人を待たない。平成最初の7年間でそれを知る世代の人は次々と引退していった。自分の身の回りでも僕が会社に入った頃、役員の半分は旧制高校、あるいは軍学校出身の方だったがその頃までにはその世代の方は全員引退していたし、昭和一桁の父もまた第二の職場へ移っていた。
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そして後に「失われた20年」と呼ばれる事になる停滞-それ自身は少し前から始まっていたが-を肌身に実感し始めたのもこの頃だった。


by michikusajinsei | 2018-10-16 07:21 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和61年 山陰本線(その8)

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大好きな季節はと問われると夏と答えるのが常であるが、今年の夏の暴力的な暑さはさすがに堪えた。幸いなことに自分の仕事は内勤なので平日の昼間出歩くことはないが、休日も約束がない限り自宅でじっとしていたのが正直なところである。

こんな気候が続くと「日本は亜熱帯になったのか」なんて言説をたまに見かけるが、白状するとその感覚にはちょっと違和感を覚える。僕は熱帯のインドネシア、シンガポール、砂漠のカタールで生活したことがあるがこの酷暑は熱帯を通り越え、ほとんど砂漠の気候に近い。いや昼間の気候を比較すると湿気が多いぶん、もしかしたら今年の日本の方が過ごしづらいかもしれない。実際、中東の来客と話していて暑さの話題を振り向けると同じような感想を漏らす人が多かった。

それに比べると熱帯の気候なんていうものは天国で、確かに昼間は暑いが湿度はそれほど高くないし、特にネシア、シンガポールのような海風の通りの良いところは夜になると気温も下がって汗をかくこともなく、ある意味、避暑に来てもおかしくないような快適さ。シンガポール生活が気に入っていたことの一つはこの気候にあったことも一因である。

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まあ、そういった個人の感覚的な印象はともかくこれだけ暑いとさて少し前の日本はどうだったのだろうかという問いかけが浮かぶ。自分が青少年期ってここまで暑くなかったことは確かだがそれを実証的に調べてみるとどうだろうか。

そしてそう思う人は自分だけではないようで、僕の勤め先では毎週月曜日の朝礼でHSSE(Health Safety Security and Environment)講話と言って安全衛生にかんする豆知識を調べて持ち回りで発表する習慣があるのだが、つい先日、同僚がそれを調べて発表してくれた。

昭和51(1976)年7月の記録では最高気温は全て34℃以下、前年の昭和50(1975)年は34℃に到達したのはわずか1日。昭和52(1977)年に至っては全て34℃未満。その傾向はその後もしばらく続く。そして日本の気温が急激に上昇し始めたのは昭和も60年を過ぎた80年代後半以降、平成に入ってからその傾向が顕著になっているとのことである。確かに自分の記憶としてもそうだ。

僕が高校生だったのは昭和57-59(1982-84)年の3年間だが、高校3年の夏がそれまでに比べて非常に暑く、冷房もなかったから教室でバケツに水を入れて気分だけでも涼しく感じるよう努力をした記憶がある。ただその時でも気温は34℃だった。30年以上前のただ1日の気温をなんで今でも覚えているかといえば、当時はそれが異常な暑さで、その暑さが受験勉強の苦しさと相まって印象に残っていたからだろう、きっと。

逆に言えば、その前までの夏といえば灼けつくような日差しという言葉はあってもそれは他の季節に比べての比喩的な表現で、昨今のような外にいるだけで本当に痛くなるような日差しとは無縁であった。それよりも夏といえばどの季節にも増して活力が湧いてくる時期で、逞しい入道雲とどこまでも続く青空に優しく見守られて青春を謳歌する、振り返るとそんな時間が若き日の僕たちが過ごしていた時代の夏の季節感であった。
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その優しかった夏の時代、僕にとってその時代の夏の光景は海と結びつく。そして僕が殊の外、気に入っていたのは海の光景は山陰本線中部。

初めてそこを訪れたのは高校2年の修学旅行。旅行自体はバスでの移動だが途中、山陰本線を並走し休憩のため止まったドライブインのすぐそばにあった駅が五十猛。

この駅の近くで見た日本海と小高い丘の織りなす美しさに魅せられ、大学に入って、また社会人になってからも何回か通った。

by michikusajinsei | 2018-09-04 06:37 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和57年 一畑電車

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この写真は昭和57(1982)年の夏に部内合宿で訪問した山陰は松江の鉄道、一畑電車の車輌である。

前回の記事では色素添加フィルムの劣化について恨み言を書いたが、今回は、経年変化が単純な劣化ではなく、いい意味で風化され現像当初にはない味わいを持つ場合があるというお話である。

この時の撮影は未だ自分の中でフィルムの使い方をどうするか考える前で普通にネガカラーであった。フィルムカメラが衰退した今となっては説明しないとどういう風にして写真を楽しんでいたのか判らないのかもしれないので書くと、フィルム写真全盛の当時、普通の写真屋さんに写真の仕上げを頼むと絹目と光沢という選択肢があり好みに応じてそれを選ぶのだが、その名の通りコントラストが高く華やかな光沢仕上げと、色調は地味だが画面の艶が落ち着いた絹目仕上げがあった。

この二つの仕上げ方法があったが、今もインスタ映えといわれる色彩のはっきりした表現が好まれるのと同様に、フィルム時代も主流は色彩が派手な光沢仕上げだったが、僕個人はテカテカ光る画面がどうにも好きになれず普通は絹目を好んで注文していた。さてそれで、この時も旅行から帰ってすぐに現像焼き付けにだしたのだが、期待に胸を弾ませて出来上がった写真はというと、そういった仕上げ云々以前に平板な階調で朝の光と空気感に包まれた現場の雰囲気が伝わってこず落胆したのを覚えている。艶の落ちた絹目仕上げだと駅舎にしても電車にしても歳月を経た重厚感は画面の中で沈んでしまう。おまけに写真の大きさも手のひらサイズだから迫力も生まれず、がっかりしてもう一度綺麗なプリントをと言う気持ちも起きないまま、タンスの中に30年以上眠っていたのである。

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そんな気持ちを30年以上経っても覚えてはいたのだが、写真の出来云々ではなく車輌自体の珍しさと同時期のフィルムの想像以上の劣化による危機感から慌てて今回スキャンしてみたわけだが嬉しい不意打ちというのだろうか、意外な写真に出来栄えにしばらくパソコンの画面を眺めてひとり悦に入ってしまった。スキャンした一畑電車の写真、パソコンのスクリーンにこの画像が現れた時、想像していたものと実際に現れたそれとの感覚の違いに思わず唸ってしまったのである。それはなんて言うのだろう絵画的な味わいと言うべきか。青みがかった薄い膜をまとったような色彩が現れた画面を見た時、そこに写真ではなく筆使いによる描写、それも油画ではなく水彩画のような柔らかさを感じたのだ。

写真というものが言葉通り真実を写すものならば今回のスキャンデータは現場の雰囲気を正確に反映しているわけではない。というよりありえない世界が表現されていると言った方が正確だ。しかし画面を覆う青い皮膜に真昼間の抜けるような青空とは違った、柔らかな朝空のもつ微妙なグラデーションと朝露の立ち込める空気感が感じられてならないのだ。手前味噌な表現と言われたらそれまでだが、この2枚の写真を見ていると35年前の夏の雰囲気が自分の心の中にありありと蘇ってくる。

初めての大旅行、それまで見たこともなかった地方私鉄の旧型電車、交換待ちの停車時間、興奮して軽い躁状態のようなフワフワした気持ちで友人たちと電車を取り囲んで夢中でシャッターを切った、そしてその時に同時に感じた朝日の輝きを昨日のように思い出す。

物理学の延長にあるデジタル写真では生まれ得ない化学反応によるフィルム写真ゆえの作用。しかも怪我の功名のような結果であるが30数年前の感動が思わぬ形で還ってきて自分な中では静かな喜びが湧き上がってきたのだった。
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一方、車内を写したこの写真。実はこの写真を撮った時のことは上の2枚とは対照的に全く覚えていない。その頃は写真を撮ることとは自分にとって車輌の写真を撮ること、それ以外の光景を撮ることはほぼなかったのだが旧型電車の車内を記録しておこうと思ったのか珍しく車輌以外の写真を撮っていた。

夏休みでガランとした早朝の電車、本を読むのに夢中な高校生、手持ち無沙汰からかぼんやりと窓外を眺める老人。木造下見板張りのホーム待合室と民家、板張りの床に運転席と客席に仕切りのない電車。戦前の面影を濃厚に残す車内ではあるけれども高校生のもつボストンバックにはPOPEYEのロゴがプリントされている。もしかしたらその時の自分はそこにミスマッチを感じていたかもしれないが、今となってはこれも時代の風景。マジソンスクエアガーデンだとか当時はこういうロゴを派手にあしらったカバンが流行していた。

その時代的には何の特徴もない光景だが、乗客の風情も窓外の建物も今となっては還らない光景である。一両の電車や一軒の建物といったものは保存できるが、それらが共存していた当時の雰囲気・空気感といったものは、過ぎてしまうとそれを共有できたもの同士でしか感じることができない儚さをどうしても感じてしまう。

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最後の写真はそれらから数年後、学校を卒業し社会に出てから、つまり平成に入ってからの写真である。特に昔の一畑電車が好みでそれを目当てにしたわけではないが、それでも旧型電車が残っているかなあと期待して久しぶりに訪れた山陰で目にした電車は味気ない大手私鉄の払い下げ、がっかりして通りすがりにこの写真を撮っただけで終わってしまった。

ただこの車輌もよくみると旧式のイコライザー型台車を履いている。調べてみると西武鉄道の新性能電車一期生で昭和34年に製造され、車体は当時の国鉄最新型である山手線を走っていた101系に準じているが下回りは国鉄旧型国電の払い下げという過渡期の電車。

前回の記事では新規装置導入推進派と実績重視派の意識の違いみたいなことも書いたが、この電車を見ていると中間的な回答もあるもんだな、と思う。外観や車内設備は最新型でお客さんから好評を得たいし、一方で保守を担当する現場は手間と費用のかかる新型の導入にはどうしても慎重になる。その中で均衡点として当時の西武鉄道が出した回答がこの電車。それはそれで西武鉄道の社風というものが出ているのかもしれない。

特に目を惹くこともない平凡な一枚の写真にも様々な物語や時代の風景、歴史を思う楽しみが隠されている、改めてそう思う一畑電車の写真である。

by michikusajinsei | 2018-08-20 07:08 | 山陰本線 | Comments(0)

山陰本線(その7)

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ただ普通列車に客車列車が広範に残ったのは、何も国鉄に全盛時代へのノスタルジーがあった訳ではなく当時はそれとは知らなかったが荷物と郵便輸送の需要が大きかったためである。

その頃も段々と高速道路網は各地域にその路線を延ばしていたが、やはり需要が少ないところは後回しになり、そんな事情も相まって郵便車や荷物車を連結するために山陰西部には普通列車に客車が充当されるにが日常的だったのである。

そしてその環境は、生来の機関車好きの自分の嗜好に合いそれもまた山陰本線に何回か足を運ばせる動機であった。

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その客車列車の存続を左右した荷物車と郵便車であるが、じつはその二つの車輌に大きな違いがあった。それは冷房装置の存在である。

その頃の郵便車の多くには冷房が装備されていたが、荷物車輌に限らず当時の冷房率は今から考えると非常に低くて、僕が電車を通学で毎日乗るようになった昭和54年(1979年)前後でも国私鉄を問わず首都圏でさえ非冷房車は珍しくなかった。全車冷房だったのは横須賀線と山手線くらいで京浜線に乗る時、夏などはユニットサッシの上段が閉まっていると乗る前に外側から開けたりもしたものである。

そんな中、この列車も一般乗客が利用する客車は当然冷房などなく窓を開けて涼をとっているのだが、普通列車に併結されている郵便車にはこの写真でも判るが、実は冷房が装備されていた。そしてこれは誰のための装備かといえば一般乗客はもちろん国鉄職員ですらない。郵便局員のためだけにあったのである。

国鉄は一面、鬼と言われた動労、鉄の団結を誇った国労という日本の戦後労働運動をリードしたこれらの組織が良くも悪くもその興亡を左右した、そのように総括できると思う。そして彼らの存在感は政治の季節でもあった高度経済成長という時代において時に一単位労組の域を越えていた。

しかし同じ官公労系で、それなりに政治への影響力もあった郵政系の労組である全逓は政治的な闘争もさることながら組合員の実際的な利益を重視していたのではないか、その結果として冷房率の向上を要求したのではなかろうか、そして対峙する使用者側の国も郵政には郵便事業だけではなく金融事業があることが労使関係を考える上で大きく影響したのではないか、そんな風に想像している。

つまりその事業が国家運営にとって極めて重要でそこに万が一でも混乱があってはいけないということで、国労・動労に比べ低姿勢で彼らに臨んでいた、そんなようにも思える。そして結果として郵便車に当時の感覚でいえば贅沢品ともいえる冷房が装備された、そんな事情があったのかもしれない。

しかし時は流れた。この直後に国鉄は民営化され三公社五現業の仲間であった郵便も21世紀の初めに民営化されている。電電公社を含めそれらが国営事業であったという意味は日本という国家の一体化と近代化を進める上で、人と情報の流動性を国家が担保し郵貯という手段で資金を集めそれで整備するということを意味する。

それが民営化されたということは、国家としての近代化が完了したという宣言であり、明治維新から始まる日本の近代化という大事業が終わったということでもある。

ある時代のある瞬間のそれもただの鈍行列車を撮ったにすぎない写真ではあるが、はからずも時代の風景というか今から見ると考えさせるものがあるなと思わせる風景を撮っていた。

by michikusajinsei | 2016-09-29 07:13 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和60年 山陰本線(その6)

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昭和の、というより高度経済成長期の国鉄の運転体系は大雑把に言えば、特急や急行という優等列車が電車や気動車、普通列車が客車というのが通り相場であった。

僕が地元を離れて各地を旅できるようになった頃はもう高度経済成長と言われる時代ではなかったが、その余韻を味わえる路線が各地にあったし、それを探して日本各地を旅したところもある。

そして、その風情を最も色濃く残していたのは山陰本線だった。

by michikusajinsei | 2016-09-26 00:02 | 山陰本線 | Comments(2)

昭和60年 山陰本線(その5)

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写真として陰影を際だたすのは夕方の斜光線がある意味定番である。
ただ一方で、写真のもう一つの醍醐味、空気感の描写という意味では朝焼けの空ほど、それを感じることはない。そしてその光景を描くのはカラーよりもモノクロ写真の方が相応しい。

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夏の朝、昼間の日差しに感じる目を覆いたくなるまぶしさとは違う、夜明けの若々しい力強さ、そんな空気感が最も似合う季節。

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その光に照らされて、雨上がりの朝、山陰の街並みはのっそりと立ち上がってきた。

by michikusajinsei | 2016-09-22 12:49 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和60年 山陰本線(その4)

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山陰路の優等列車と言えば昭和36年10月のダイヤ改正で誕生したディーゼル特急一期生「まつかぜ」がすぐにその名前が挙がる。

余談だが、この頃に誕生した特急名称は今から思えばスピード感を実に典雅な名前で象徴づけたものが多い。戦前からの「つばめ」に加え『こだま」「はつかり」「おおとり」「おおぞら」「白鳥」そして「まつかぜ」。我々にとってこれらの名詞は実物がどうであれイメージの中ではピーンと目的地に向かって一直線に進む印象が強い。だからこそ当時の国鉄営業部隊も特急列車の名称にふさわしいと考えて名付けたのではないだろうか。

一方、もう一つ国鉄ネーミングのお家芸があってそれは旧国名の登用である。こちらはこちらで聞くだけで旅情を掻き立てるものがあったし、また逆に地元も方々にとっっては親しみがわく名称だったのではないか、そんな風に思う。

そしてこの「おき」もそう。僕が知る「まつかぜ」は残念ながら登場当初の優等列車の風情を失い廃止が目睫に迫っている時期だった。対してこの「おき」は編成長こそ長くはなかったが、結構な頻度で山陰の中核となる都市を結ぶために走っていたこともあって完全に山陰西部のクイーンのような存在であった。

by michikusajinsei | 2016-09-18 00:00 | 山陰本線 | Comments(4)

昭和60年 山陰本線(その3)

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僕が何ども旅していた頃の山陰本線は「偉大なるローカル線」と時に言われ、長大な路線長の割にはどこか2線級のイメージがあったのは否めないが、どうしてどうして訪れてみると、点在する地方都市を結ぶインターアーバンの役割を鉄道が担っていて優等列車の数も多く、ある意味、新幹線が建設されたためその役割がなくなってしまった山陽本線よりも華やかさは上だったように思う。

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by michikusajinsei | 2016-09-10 12:48 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和60年 山陰本線(その2)

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白鳥や 哀しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよう

若山牧水の名歌である。

特に短歌に親しんだということはないのだが、小学校の担任と高校の国語教師が短歌が好きで色々な短歌を紹介してくれた。その中でも自分が旅をするようになり印象的なジャパンブルーの空や海の青に接すると浮かんでくるのはこの歌である。

山陰を旅したのは数回あるが、いずれも晩夏から秋にかけての時期、盛夏の時期を過ぎ誰もいない海岸を歩いていると牧水が歌った白鳥ではないが、空にも海にも染まずに漂うように、どこにも同化できないやるせなさを感じて旅をしていたことを思い出す。
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ただ、同時に山陰の海はいつも穏やかで、湘南の海にあるギラついたところが少しもなく、そこでは肩肘を張らないでいいホッとした気持ちも感じていた。

そう、たまに通る地元の方の車以外、人の気配を感じることもなく、かといって北海道の原野のような野生を感じるのではなく、列車が来るのを待つ間、色々な雑念が脳裏に浮かんでは消え淡々と時の流れに身を任せていた、それは極私的ではあるけれど、時代の影響も無視しえない青春時代特有の時間と風景だったのだろう。

青春時代という存在が加速度をつけて自分の手の届かないところに去っていく、そんなことを感じることが多い現在から振り返ると、そのように思えるのである。

by michikusajinsei | 2016-09-07 06:53 | 山陰本線 | Comments(0)