
僕が本格的に鉄道写真を撮り始めたのは中学校3年の時、37年前の昭和56(1981)年からである。サッカー部をやめて鉄道研究部に入り、それから部活と称してあちこちに写真を撮りに行き始めた。
当時使っていたカメラはニコンF。もちろん自分でそんなカメラを買えようはずはなく父親のカメラを使わしてもらっていた。フィルムは最初の頃はフジカラーを使っていたが、やがて周囲の影響で日常的にはモノクロ、ここぞという時にポジカラーを使うようになった。
ポジカラーはベルビア登場以前であるからコダックの独壇場、エクタクロームかコダクローム。値段的には同じくらいだったが保存性の良さということが言われていたのでコダクロームを主に使っていた。ただ使っていたと言ってもポジカラーは高かったから長期休みの部内旅行の時くらいである。普段使っていたのはもっぱらモノクロフィルムである。その銘柄はイルフォードのHP400というブランドであった。
一般的には富士フィルムのネオパンSSかSSS、或いはコダックのトライXが使われていたのだが、これらのフィルムは言われるところの銀塩写真。銀で画像が構成されるのでその粒子が時として無視できない画像の荒さとなりそれが不満だった。対してこのイルフォードのフィルムはモノクロであるがカラーネガと同じで色素で画像を形成することから粒子が目立たず、そういう写真を好んでいた自分には最適なように思えた。
さらに言えば、元々、天の邪鬼気質の性格でできれば主流と違うものを使いたかったし、またこれは写真をは関係ないが当時、ブリティッシュロックに傾倒していてなんとなくアメリカンなコダックよりもイギリス系資本の会社であるイルフォードに親近感を覚えていたことも正直あった。
この組み合わせで高校時代を過ごしたのであるが、この頃から30年以上経過しフィルムのスキャンを始めるようになって愕然としたのは高校時代に撮影したフィルムの想像以上の劣化である。
昔のカラー映画を見る時、時として色素が抜けて褪色した画像を見せられることがある。僕のフィルムに起こっているのも似たような現象で、特定の色素が抜けて色が被ったように赤味や緑色を帯びたり、あるいは現像当時はなかった現像ムラのようなシミがところどころ発生しているものまである。初めてこの現象を見た時は正直愕然とした。当時も日常の家族写真などでは普通のネガカラーを使っていたが、そのネガカラーと比べても同じ保存状態であっても明らかに劣化はこのイルフォードの方が酷く、臍を噛む思いとはこのことである。
大学に入ってからプロラボの存在を知り、そこで現像してもらうと粒状性の荒さは気にならなくなったことから入手しやすいトライXに変更したのだが、その点で銀塩写真の保存性の高さは大したもので、写真によってはセピア色に変色しているものもあるが、ほとんどのカットは撮影当時の雰囲気をそのまま残している。
実は仕事の上でも僕は新しがりやで、新規の製品や会社に注目する傾向が強く、手堅さを好む人と反目したりすることがままあるのだが、持って生まれた性格とはいえ若い頃の選択の誤りを今になって突きつけられるようで何とも言えない苦味を感じている。特に車輌的には飯田線の旧型国電や末期のEF58など高校時代の撮影には貴重なものが多くて、今になってやるせないため息をスキャンした画像を見てはついている。
この南部縦貫鉄道の写真もそう。フォトショップを相当使って修正しているが粗の全てを消すことはできずせめてあと10年早くスキャンしていればという気持ちが湧き上がるのを抑えきれない、というところである。
さて、それはともかく僕が高校の頃、若い鉄道ファンに人気があった地方私鉄といえば西の別府鉄道とこの南部縦貫鉄道が最右翼であった。
別府鉄道はともかくとして南部縦貫の魅力は、いかにも地方私鉄らしい豊かな自然の中を当時、ここにしかないレールバスが運行しているという希少価値、また当時は東北本線に夜行の急行が八甲田、十和田と2系統走っていたので周遊券があれば特別な料金を払わずに起点の野辺地にたどり着けるため貧乏旅行でも比較的訪問しやすいという点もまた大事な点であった。
そうは言いながらも実は当時の僕の興味は本線筋の機関車に偏っていたから、この鉄道を訪問したのは夏の一度きり。高校2年の夏休みである。親友の一人がその年の冬休みに訪問して雪景色の中を走る素晴らしい情景写真をものにしているが、当時は同じ冬景色ならそれよりも北海道に行きたい気持ちが強く、またいつかいけるだろうくらいに思っていて、それが予想外にも早くに廃線になってしまって、地団駄を踏んで悔しがってもそれは後の祭り。
さらに今回のスキャンの通り一度きりの写真もまた劣化してしまっているのだから何おか言わん。それでもたった一度とはいえ訪問できたことを持って自分の心を慰謝する他はないだろう。
少なくとも、あのレールバスに乗り、いかにも地方私鉄の終点駅といった雰囲気の七戸駅を訪れることができたのだから。
これを書いている今、日本列島、特に本州は各地で連日体温に近い35℃を超える猛暑が続いているが、昭和の時代、本州、特に東北地方を悩ませていたのは冷害、夏の時期に気温が上がらず稲の生育が遅れ充分な収穫ができないことであった。この年、昭和57年も記録を見るとそうである。
実際、この南部縦貫にいった時も暑かったという記憶はまったくない。泊まったわけではないのでただ1日の感想になってしまうが、曇天の野辺地から終点の七戸まで。今となっては記憶は途切れ途切れだが、西千曳駅の単行のレールバスに似合わない妙に長いプラットフォーム(これは後で東北本線の旧線を利用して野辺地に乗り入れているため国鉄時代の駅をそのまま使っていたとのことで納得した)、人家というものの存在感が感じられない寂寥とした風景というものが続いていたのを覚えている。営農大学校前とか盛田牧場前という駅があったと思うが、そこについても牧場らしい風景などどこにもなかった。
写真を撮っているので沿線のどこかで自分は途中下車したのだと思うが、今となってはそれももう記憶の彼方である。また当時は知らなかったが、その頃は木製の橋梁なども残っていたらしい。
やがて到着した終点の七戸の駅には本社と車庫があった。中途半端であるがその車庫の中の光景がこれらの写真。沿線風景の記憶はおぼつかないけど、なぜかこの七戸の記憶は鮮やかである。
恐らくそれは車庫の中を自由に入っても何のお咎め受けなかったからであろう。そしてこの車庫の中には鉄道ファン的にはお宝のような車輌が休んでいた。
国鉄から払い下げられたキハ10系、別の私鉄からきたロッド式のディーゼル機関車、これらの車輌の全盛期は昭和3、40年代、戦後の鉄道黄金時代の生き証人の車輌である。これらの車輌はまだ他の鉄道でも見られたが、目の前で舐めるように見られるのはまた格別である。特にロッド式の機関車は整備の途中だったのかボンネットを開けていて潤滑油の滲みも生々しいむき出しのエンジンが現役感を強く訴えていた。この現役感を表現したくて実はコダクロームでこの修理中の車輌風景を撮影しているのだが、うまくスキャンできないで残念ながら未だデジタル化を果たせておらず、このブログにも載せることは叶わない。唯一、狭い車庫の中でへばりつくようにして撮した正面の写真が下の通りスキャンできたのみである。
正直言えば、高校の頃の記憶はかなり断片的である。メモをとるような習慣がなかったので今となってはどのようなルートで旅行したのか覚えていない。そんな中で南部縦貫の七戸駅倉機関庫の情景が強く記憶に残っているのは、こんな世界に出会えるとは思ってもみなかったので感激したからなのだと思う。
しかし自分にとってもう一度会いたい南部縦貫はこのブログに載せた車庫以外の写真、歩いていると心細くなるような大地走るレールバスであり、西千曳駅の長いプラットホーム、また小さな駅でも貨物扱いをしていた全盛期の鉄道風景を偲ばせる七戸駅の貨車が並んだ光景なのである。
この写真の頃、昭和とはいえ、50年代も後半になると高度経済成長時代も終わり低成長の時代、次を模索する時代と言われていた。振り返ってみると、ひとつの時代とはその前の時代風景を作り変える時期でもあるように思う。その意味で今から考ると青春期の僕が見ていた世界は高度経済成長という時代によって作られた風景だ。それに対して南部縦貫鉄道はその前のプレ高度経済成長の情景を色濃く残していた。そしてその光景は昭和40年代初頭に生まれた僕の幼少年期を通じて姿を消していった世界でもある。その意味で南部縦貫鉄道が強く記憶に残っているのは単に珍しいからだけではなく、自分自身にとっての原風景に繋がり共鳴するところがあるからかもしれない。