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昭和61年 加能越鉄道

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青天の霹靂

昭和49年、田中首相退陣の後継争いで当初員数合わせの候補とみられていた三木武夫が、逆点で後継総理の座に選ばれた瞬間に呟いたことで市民権を得た言葉だ。

正直、霹靂は日常の中で使う言葉ではない。おそらくその言葉を聞いた当時の人の多くも一瞬どんな意味って思ったんじゃなかろうか。

だが、そこは漢字という言葉の力、あるいはそれによって文化を受け継いできた我々の感性に訴える力故か、意味とか概念といった思考からではなく、その言葉を見た、あるいは聞いた瞬間にたちまちにしてそこに鮮烈な印象を思い浮かべることができる、そんな言葉の一つではなかったのではないか、それくらいこの言葉に与えられた漢字による視覚への刺激、鋭角的な響きの組み合わせによる語感の強さは圧倒的である。

ただその語感の強さ故か、日常的な驚きといった場面では使いづらくて人々の口吻に普段乗るような言葉ではないし、何よりも時代の流れに竿をさすと、漢籍由来の言葉の引用が衰え英語由来の言葉が多用される昨今の風潮もある。実際、僕も新聞記事などで目にすることはあっても人との会話の中でこの言葉が使われる場面に出会ったことはない。

その意味でもはや生きている言葉ではなく昭和49年の三木武夫という歴史的な瞬間を記憶する言葉になっているのかもしれない。

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「お前は出世しないなあ」
「.......確かに....そうですね、事実として」
「うーん、性格はさばけているし、考え方も柔軟で悪くないのに。この会社はお前を出世させたくないんだな。」
「そうなんですね。というか、やっぱりそうなんだ。まあ、それは仕方ないです。でも、それならば、その中で僕は自分のやりたいように仕事をしていくほか、ないですね。」
「まあ、そういうことだろうな。」

5月の半ば、ある先輩との会話である。

普段は人との会話をメモするようないやらしいことはまずしないが、この時ばかりは別で、屈折した表現ながら、この先輩に認められたことが嬉しくて帰宅してから手帳にそっとその記憶を残したのである。
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前回の話にでてきた先輩が社会人としての常識を教えてくれたとすれば、この先輩は社会人としての非常識、というとおかしいが、仕事ができればここまで羽目を外しても実は問題ないんだよってことを新卒入社の僕に教えてくれた先輩だ。

なにせこの先輩、始業は9時なのに出勤時刻は平然と毎日9時半、そしてよほどのことがない限り残業などせずに定時で帰宅してしまう。確かに制度としてフレックスタイムというのは当時からあったが前提として就業時間は働くものである。しかしそんなの関係ないとばかりの俺様勤務。

またその勤務時間中もおとなしく仕事だけをしているような殊勝さはない。抜群に絵が上手くて、不定期に職場新聞と称して同僚を漫画仕立てにして部内に回したりする。なかなか結婚できなかった別の先輩を題材にして「女日照りだよ、おっかさん。」なんてセリフで悲嘆にくれるその先輩を揶揄するような漫画を就業時間中に描いたりするのである。

さらに言えば、お酒を全く飲めないというアルコールアレルギー体質。従って飲み会は誘いも誘われもしない。体質だから仕方ないがこれも当時の酒で人の輪を繋いでいくのが当然みたいなサラリーマン社会では異端ではあった。

書いていて、まあよくぞここまで非常識を貫けるな、当時の課長も扱いに苦労したんだろうなあ、と思わず苦笑したくなる無軌道ぶりだが、しかし仕事は抜群にできた。

その仕事というのは顧客が呈示してきた契約書にしのばせられている自社にとって不都合な部分を見つけ出し、それへの対応策を策定するのが主な業務なのだが分厚い英文契約書をたちまちのうちに読み込み、不都合な事実を見つけ出して対策を立案するのに普通の人の半分の時間で済ますのである。そう、ある種、天才肌ともいえる芸風だった。

だからこんな野放図なことが許されていたとも言えるが、さすがに業績が悪化し自由の風が制限されだすとこの会社に居場所がなくなることを本人も感じたのだろう、あっさり転職してしまった。転職先ではさすがに外様扱いだったのだろう、生き延びるために猫をかぶって野放図さは封印、そうなると卓越した事務処理能力が目立ちまたそれが買われてそれなりの地位にいるらしい。

その先輩に地位ではなく仕事そのものの完成度で評価を得る一廉の職業人として認められたのが嬉しかったのである。
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その時から半月ほど過ぎたある日、上司の報告することがあって彼と部屋へ入った。淡々とその報告は済み了承を得たので、じゃあ、これで、と出ようとすると話したいことがあると言われ、もう一度、席に着く。そこで告げられたのは思ってもみなかった異動の打診だった。

思わずある冒頭の言葉が口をついてでた。

「それは.....青天の霹靂だ....。本気ですか。」歴史的な存在になろうとしている言葉をまさか自分が発することになるとは思いもよらなかった。

任されてやる仕事そのものどちらかに優劣があるわけではない。ただその時に担当していた仕事は課題として今の自分にとって職業人生を懸けて取り組もうと期していたし、それが自分にとってのこの会社で生きること、働く喜びと考えていた。その仕事を取り上げられることになったのである。無念である、その思いしかなかった。

しかし同時に、上司に対し無念の思いを吐露しながら人生とは思いもよらぬ出来事、しかし振り返ればそれへの暗示めいたことがままあること、ひと月前の先輩との会話を頭に浮かべながら、それが人生そのものであることにも思いを馳せてもいた。
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今回の写真群は昭和61年の夏に北陸を旅した時のものだ。

僕は美しい風景、光と空気が融合してもたらす輝き、大げさに言えばそんな瞬間との出会いを求めて日本を旅していた。

しかし、なぜかこの時、それとは全く逆の荒涼とした風景を記録している。いったい、どんな気持ちでこれらの風景を写し撮ったのか、今ではそれを思い出せない。

by michikusajinsei | 2019-07-31 23:12 | Comments(0)

昭和62年 山陽本線

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大きな諦念と小さな挑戦

この何年か、いやもう少し長いか。今、52歳の自分が40代になった頃からであろうか、いつしか人生というものはそんなものではないか、そんな風に思うようになってきていた。

なにかきっかけがあってそう考えるようになった出来事があるわけではなく、日々の生活の中で自分と周りの関係、あるいは上司や先輩の動きを観察していて自然とそれを感じるようになった、ある面ではそういうところもあるし、一方で、そう思わなくては精神の平衡を保てないような苦しさが長期間続くような状況だったからだとも言える。

ただ、その思考の源流を自分なりにたどればやはり若い頃に出会った二つの言葉というか人生の先達が発したアフォリズムが通奏低音として僕自身の思考リズムの基調として底に流れていたからかもしれない。

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一つは高校3年、受験勉強一色に染め上げられた頃、ある英語教師の発した一言、
「君たちは人生の前に大きな希望が広がっているとか、未知の可能性があるとか言われているだろう、あれは嘘だからな。君たちのこれからの人生はまったく正反対、可能性というものを一つ一つ閉ざしていくことだからな。」

なにかイベントなり事件が起こって改めて発せられな言葉ではなく、日々の授業の何気ない雑談のような流れの中の淡々とした一言だったので、教室の中の空気が変わるということもなかったが、今、思い出しても高校生活の中で覚えている教師の教えといえばこれくらいだと言えるくらい自分にとっては強く印象に残る言葉だった。

その理由の一つは当時の自分の学力と興味の方向性から私立文系の大学しか行けそうもなく、それは別に悪いことでもなんでもないのだが、進学校といえる学校の雰囲気の中ではそれは一面、一番出来の悪い生徒の象徴でもある。言って見れば可能性を既にして閉ざされた状況でもあるし、またそんな少年なりの閉塞感を抱えた中にあったからこそそれが逆説的に人生の可能性を見出すような言葉のように思えて勇気付けられる、そう思ったからである。

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もう一つ、それはその少し前、小学校高学年か中学性の頃だったか。それはある雑誌を読んでいてその中で目に止まった言葉である。

その雑誌とは「暮しの手帖」その連載記事であった古谷綱正「私の映画日記」その連載の中で紹介されていたルキノヴィスコンティ監督晩年の作品「家族の肖像」その記事の中で引用されていたヴィスコンティ監督の言葉「私はこの作品にでてくる教授の存在を通じて我々の世代の敗北を描きたかった。」

もちろん、この文章を読んだときは世代なんて概念がわかるはずもない幼い頃だが、両親および母方の祖父母と同居し、また毎週のように父方の祖父母とも交流があった環境で育ったせいか、自分の生を超えた時代の匂い、というものを幼いなりに無意識に感じていたためであろうか、こんな言葉に出会い、そしてその意味を人生の中で折に触れ考えるようになったのである。

ただ、それは字面としてこれを理解しようとした、そういうわけではない。この言葉の背後に、ある一つの世代が辿った運命、あるいは担った時代とその潮流というものがあったのではないか、両親と祖父母、二つの世代の生き方と彼らが生活を営んだ時代背景というもの、自分にとってのそれらは果たしてどんなものか。

「激動の」という形容詞がついて回った昭和という時代を背負った世代に対して平成という時代の自分たちはどんな時代を演出するのか、そんな自問自答を社会に出て、その営みの現実を目にするにつれするようになったのである。

by michikusajinsei | 2019-05-22 07:16 | Comments(4)

昭和61年 氷見線

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前任の森監督は高校時代からスター選手。早稲田大学から三菱重工、そして代表でも銅メダルをとったメキシコ五輪に出場している。指導者としても早い頃からいずれは代表の監督にと嘱望された存在だった。生まれも昭和18年だから当時は30代後半から40代前半、年代的には選手にとって兄貴分のような存在、まだ選手としてもプレーできるような若々しさを持った青年監督だった。

一方の石井義信さんは、昭和14年の生まれで高卒で東洋工業に入社だから昭和33年か。特にサッカーの才能を見込まれてというのではなく一般試験で入社。その入社した東洋工業は草創期の日本サッカーリーグの盟主でリーグ創設から3連覇を成し遂げたチームである。高卒で入社しサッカー部に入部してチームの主力になり、また記録によれば昭和37年に一度だけ日本代表に呼ばれているので選手としての実績も残してはいるがむしろ花開いたのは監督としてである。

請われて新しくサッカーチームを結成した藤和不動産に選手兼コーチとして転職、県リーグの4部から4年で最高峰の日本サッカーリーグ1部に昇格するのに貢献。そしてそのチームを引き継いだ親会社のフジタ工業の監督として4年間でリーグ、天皇杯をそれぞれ2回優勝という実績は名監督と呼ぶのに相応しい。そして監督退任後はサラリーマン稼業の傍でサッカー協会の仕事をしていた。ただ協会の仕事と言っても日本サッカーリーグの運営委員という肩書きだからいわば裏方の仕事、代表チーム強化や育成と言った現場からは離れていた。

代表の監督になるまではそういった経歴の持ち主である。
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ただ、ここまではもっぱら記録の中で知った経歴であって僕自身が目で見た歴史ではない。

僕が石井さんを覚えていたのは、地元のテレビ神奈川で時折、解説者として出演、テレビ向きの派手な形容はないが、淡々としかし理知的でわかりやすい解説者として印象に残っていたからである。

実は僕は中学の頃、サッカーをしていたのだが学校生活の途中から鉄道を追いかけるのに夢中になってしまいサッカーをするのを止めてしまったし、プレーしていた頃も日本代表がニュースになることなどほとんどなかったから正直なところ関心がなかった。

そして受験が終わり、また鉄道趣味も熱心に追いかけていた旧型国電やEF58が引退して一区切り感があった時に再び巡り合ったのがサッカー、それが昭和60年の代表チームだった。ただ昭和60年のチームは僕が出会う前にそのカラーはできていた。端的に言ってしまえば、森監督の就任は僕がサッカーに再会する前の出来事である。

その意味で、愈々、サッカーにのめり込んでいく中、初めて最初からその歩みを共にするようになったチーム、それが石井監督率いる昭和61年の代表チームだったのである。

その石井監督の代表チームであるが、与えられたタスクは2年後に開かれるソウルオリンピック予選突破であった。開催国免除のため、何度も煮え湯を飲まされた韓国が予選相手にいない。そしてその韓国を相手にあと一歩まで追い詰めた選手の主力は健在、日本人プロサッカー第一号で西ドイツで活躍していた奥寺康彦の復帰など好条件が揃っていたし、石井監督の率いた時のフジタは破壊的な攻撃サッカーで鳴らしたチームであったとの情報もあり、誰もが華やかな攻撃サッカーでの好成績を期待したものだった。

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しかし石井監督はそういった期待を全く裏切り正反対のサッカーチームを作っていった。当時の言葉で言えば「専守防衛サッカー」ひたすら守りを固め、攻撃は水沼貴史が一発のパスで相手を切り崩し、アジアの核弾頭と言われた空中戦に強い原博実のヘッドに合わす、それに破壊力のあるシュートが持ち味の手塚聡がそのこぼれ球を狙うというほぼこの組み合わせのみ、それで試合の中で数少ないチャンスを狙うというサッカーであった。

攻守にバランスの取れたチーム、あるいは華やかな攻撃力を誇るチーム、サッカーに限らず球技全般こういうチームが万人に好まれるチームであるが、それと全く反対のサッカーを志向したものだから当時のサッカージャーナリズムから総スカン、その中でも毎日新聞は比較的、好意的な態度であったが他の新聞雑誌は全て勝ち進んでもこのチームにはまるで期待を持てないという論調だったのを覚えている。森監督が作り上げた攻撃サッカーを目指す路線を放棄し時代に逆行したサッカーだ、と。

しかし僕は違った感想を抱いていた。

サッカー熱はワールドカップが終わってからますます嵩じていた。入場料が安かったことや、都内までの定期券があることから千駄ヶ谷、西が丘の両国立競技場へも行きやすかったし、もちろん地元の三ツ沢へも。登場するチームにこだわらず毎試合、サッカーを観戦に行った。サッカー雑誌記者を除けばこの2年間、最も競技場に足を運んだのは僕だったのではないだろうか、そう思うこともあるくらい通った。それこそ雨の日も雪の日も。企業応援団の存在で盛り上がる試合もあったが、6万人はいる国立に数十人しかいない試合などもあった。

それだけ数をこなしていくとある程度サッカーを見る眼も養われてくる。そしてその眼からみて、どう贔屓目に見ても攻撃サッカーを主体に代表チームを編成するのは無理だった。次のワールドカップを目指して4年という時間を与えられるのならばあるいはそれもできたかもしれないが、与えられた時間はわずか1年である。現場を任された監督は夢想してなどいられない。昭和60年のチームの中心だった木村和司は不調であったが、同じ日産チームで弟分であった水沼貴史の成長が目覚しかった。守備の要であるリベロの加藤久とヘッドが強いフォワードの原博実は健在、そこに経験豊かで攻守共に本場ドイツで歴戦をこなした奥寺康彦を加える、それが軸。というよりそれしか国際舞台で計算できる戦力がいない。その限られた人材でいかにして戦えるチームを作るか。

外野の我々は好き勝手なことを夢想し色々と注文をつける。しかし結果を出すのは監督の目指すサッカーとそれを具現化する選手である。監督、石井義信はマスコミ論調に惑わされることなく現実を見据えた適格なチームを編成している、そのように感じていた。

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ただその頃、僕が石井監督を支持していた心情はそういう評論家的な視点だけではなかった。

前任の森監督の昭和18年生まれに対して石井監督のそれは昭和14年だから、世代的には同世代といっても差し支えない歳の差でしかないが醸し出す雰囲気はまったく違った。事実、マスコミの代表チームに対する形容も前者の「森ファミリー」に対して後者は「石井一家」

森監督にはどことなく青年監督を見る暖かい雰囲気や感情があったし森監督自身にも育ちの良さから感じられる優しさ、厳しく言えばそれは甘さというべきかもしれないが、そいうものがあったのに対し、石井監督は自身の醸し出す雰囲気、そしてその決断には冷厳さ、わからない人間にはわからなくてよいと言いたげな空気を常に纏っていた。あるいはこれが志向するサッカー以上にマスコミから嫌われた一因だったかもしれない。

森監督が歳の離れた兄貴、あるいは話のわかる叔父ならば石井監督はまごうかたなき父、それもニューファミリーと言われる世代の前にあった時代の父親の雰囲気を濃厚に漂わせていた。彼らは4歳の年の差であるが大卒と高卒で4年の違い、その8年間、社会に出た年が昭和33年と41年では時代の風潮も過ごしてきた環境も全く違う。そして僕たちの両親の世代のほとんどが石井監督と同じ頃に社会に出ていた。

苦労人であるが、言葉に表すことができない不器用さ、それでも背中でわかってくれよと言いたげな哀感、現実の父親たちの考えは相入れなかったし、それに反発してはいたが、一方で貧しかった時代からとにもかくにもGDP世界第2位の地位に登りつめた戦後日本の原動力、自分たちは果たして同じことをできたのであろうかという畏怖の気持ち、僕らの世代が感じていた父親とはそんな存在だった。

石井監督の姿勢にそういった尊敬と反発が入り交じった自分の屈折した心情が反映していたこともあったのである。

by michikusajinsei | 2018-06-20 07:22 | Comments(0)

昭和62年 越美北線(その3)

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人生には上り坂と下り坂以外にもう一つ坂がある。その坂は「まさか」ゆめ、そのことを忘れずお過ごしなされ

度々、耳にするアフォリズムである。そしてこのアフォリズムを噛みしめるのはまさに、まさかの事態が起こった時、劣等生で成績下位の位置には慣れていたが、さすがに落第はまさかの事態。正直言えば、衝撃が大きすぎてその事実を知ったときどうだったか憶えていない。そして、それから直ぐに、こんどは虫垂炎が発症。薬で散らすには症状が進んでいて入院して手術する羽目になった。

手術そのものは無事成功したが、術後の管理が必要で盲腸にしては長く2週間の入院。退院してきた時はかなり体力が落ちていて2階への階段を上るのも難儀する有様だった。またこの入院期間がちょうど新学期にまたがっていたので友達の幾人かは落第のショックで僕がドロップアウトしたのではないかと思ったらしい。

まあそう思われても仕方ない状況だったがでも今から思えばこの入院で救われたところがあったかもしれない。落第という現実を日常ではなく非日常的な入院生活という中に逃げ出すことができたからである。

ただ、今、これを書いていて気がついたが、この時、親の気持ちはどうだったのだろうか。親にしてみれば学校は落第、それはそれで怒りや失望、心配、様々な気持ちが交錯しただろう。そして更に今度は入院である。盲腸の手術とはいえまさかはある。とりあえず学校のことは措いて無事であれ、そう強く願ったのだろうな、手術前の両親の面差しを思い返すとそんな感慨が浮かぶ。当事者である自分はもう現実に圧倒され翻弄されていて他人の気持ちを推し量る余裕など全くなかったが、30年が経ち、ようやくあの頃のことをこうして振り返ることができるようになった今にして、親の気持ちというものに想いを馳せる余裕もでてきたということか。

閑話休題、その「まさか」がそれこそマサカ、横浜市内のバス停にあるとは思わなかった。

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ところで、この落第、入院の時期に前後して僕はどんどんサッカーに傾斜していった。

病も癒え、気持ちも少し持ち直した頃にメキシコでW杯が開催された。マラドーナの5人抜きが演じられたアルゼンチン対イングランド、雨中の激闘、点の取り合いの末、4-3でベルギーが競り勝った旧ソ連との対決。後に史上最高の試合と称されることになるプラティニのフランスとジーコ・ソクラテスのブラジルとの延長PK。後世に語り続けられることになる試合の数々に酔いしれた。それらの試合はビデオに取ってその後何度も飽かずに見続けた。

けれども、そこに我が代表はいない。後少しで同じ空の下に、希望と期待を持って心から応援できる母国の代表チームを見ることができた、もう少しの距離だった、

残念さもあったが、見えてきた世界の背中に追いつく期待感を持った。そう期待感、その気持ちは明日を信じることでもある。落第して惨めな気持ちでいた自分の心にも、少しづつ、そしてまだ行きつ戻りつでもあったが、希望と復活を期す気持ちもサッカーの試合を見ることで生まれてきた。
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ただ、その時期、足下の日本代表チームは少しばかり揺れていた。敗れたりとはいえ我々の代表チームという誇りを持つことができたチームを率いた監督の森孝慈さんであるが、さらなる高みを目指すために続投を要請された折、監督のプロ化を要求し当時の協会にその考えが容れられないと続投を断り退任してしまった。今と異なり、昭和のスポーツ界はある種のエリート意識に支えられたアマチュアリズムが主流だったのである。

誰もがその手腕を認め、そしてさらなる躍進を期待できる指揮官がいなくなったってしまった。正直、何やっているんだという怒りというか落胆というか、どうにもならない感情を当時抱いたものである。

そして、森孝慈監督の後任として代表監督に就任したのが、石井義信、その人だったのである。

by michikusajinsei | 2018-05-30 07:20 | Comments(0)

昭和60年 筑豊(その1)

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強まりつつある日差しと、それを裏腹な冷たい風を同時に感じる時期、関東で言えば立春を過ぎたくらいの時期にそういう天気があると僕は早春賦の一節をよく思い出した。

春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず

そんな詩情がある人間ではないが、やはり若き日に日本を旅していると季節に日本の情感を感じる時があってそれには古い言葉遣いの節が自然と馴染むような気がするからである。

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そんな情感に似合うのは、やはり梅、月並みかもしれないが櫻とはまた違った風情があって、季節のうつろいをほとんど意識しなかった若い頃もそれを感じたのか、自分としては珍しく鉄道と花を絡めた写真を撮っていた。

by michikusajinsei | 2018-03-04 14:42 | Comments(0)

昭和62年 富山地方鉄道(その3)

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鉄道会社に限らずどの会社も生き残るために如何に自分の会社の独自性をアピールするかに知恵を絞っている。というよりそれが会社を動かす原動力である。

これは会社に限らず人の営みということはつまるところ他と比べて如何に自分が魅力的かを誰かに伝えることであるし、その活動の裏表が僕たちの生活や性格を規定している。外面内面、着飾るのもそうでないのも、無意識のうちに自らの個性をそうやって発信している。

さて、そういった人の営みはともかく、会社経営という視点であれば、それが値段だったり便利さだったり、格好よさであったりと、その訴える手段がその会社の特徴を端的に表しているのだが、さて、鉄道会社の場合はそれはどうであろうか、というと異論はあるとは思うが僕は塗装、この一点に尽きると思う。

例えば全国組織で誰もが知っているが故にそういう自らの独自性を訴えることが希薄だった国鉄は、時期や一部の地方で例外はあるけれど電車の塗装はほぼ3つ。湘南色、スカ色、そしてピンクにクリームの交流色に集約されていたし、逆にそういう会社の色を大事にしていた私鉄各社は京急の赤、阪急のマルーンのようにその塗装それ自身をブランド化することまで行っている。

そうなるとしめたもので、多少カタチが不細工であったり、古くなって陳腐化してもそうは見させない魔力を発揮してしまうのだから電車のカラーというものは鉄道会社にとってはものすごく大事な資産であると個人的には思っている。

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そして富山地鉄。そうはいっても地方私鉄は鉄道を維持するのが精一杯なところが多く、わかっていてもなかなかそこまでできないのかもしれない中で、この鉄道の塗装は別格。

この2枚の写真、上の写真の車両が昭和30年製、下が昭和37年製と昭和62年当時としても、そろそろベテランの域にはいって更新を受けてこの塗装になっているのだろうが、そうなる時によくある厚化粧感を受けなかった。

何と言ってもこの配色デザインそのものがまずすっきりとしていてこざっぱりとした清潔感がある。またそれが故か、車齢が進んだ車両であっても不思議と古臭さを感じさせない軽快感、清冽さを抱かせる。特に文字通り出色といえるのはグレーの配色。これが地味であるがホワイトとレッドのの2色をまるで隠し味のようにうまく浮き立たせているのではないか、そんな印象を持っていた。




by michikusajinsei | 2017-03-08 06:54 | Comments(2)

映画紹介(号外)

渋谷にあるシネマヴェーラと言う映画館で今週の水曜日と金曜日に「7人の刑事 終着駅の女」と言う作品(昭和40年 日活)が上映されます。

http://www.cinemavera.com/schedule.php

この作品、舞台はほぼ全て当時の上野駅でロケされています。

列車は余り出てきませんが国鉄時代最盛期の人波が溢れる上野駅とその周辺風景がロケでしか持ち得ない圧倒的な迫力でフィルムに残されており、ストーリーとしても高度経済成長期の溢れるような活気とその裏側に存在した世界が交錯する場所の象徴として上野駅そのものが背景となっており、そのドラマは見る者を飽きさせません。

映像はモノクロですが、跳ぶようなカメラワークがスピーディーで追うもの追われるもの緊張感・躍動感を表現し、その粒子を残したザラっとした質感が沸騰するようなあの時代特有の汗臭さ、熱気というものを伝えてきます。

ちなみに登場する車輌はEF57、58、DD13の初期型旧塗装。10系客車、また姿は現しませんが、駅の案内放送は「はつかり」の到着を伝えています。この案内放送も今となってはある時代の残された貴重な音源かもしれません。

首都圏在住の方以外は難しいかもしれませんが、ごらんになることを強くお勧めします。

by michikusajinsei | 2016-06-06 12:06 | Comments(0)

平成28年 鳴門駅

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終着駅の風情が濃い鳴門駅
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たとえ新型車輛でも、気動車が短い行き止まりホームにポツンと佇む光景はたびの終わりの寂寥感と同時に終着駅が始発駅となって発車をまつ間は鉄道があることの安心感を同時に感じてしまう。

by michikusajinsei | 2016-01-27 11:58 | Comments(0)

平成28年 岡山

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これは岡山で食べた親子うどん。
前日まで香川を旅行していながら岡山のうどんをアップするのも天邪鬼な話だが、美味しかったんだからしょうがない。

いや、もちろん香川のうどんは堪能したんだけど、なんせセルフの食べ方一つ知らない人間なんで、うまかったなあ、と言う感想しか浮かばない。

実は半世紀近い人生で親子うどんというものを食べるのは初めて。

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そして食べたのはこのお店。僕は大衆食堂の真髄は丼ものにあると信じているが、とにかく寒くて今回に限っては何かあったかい物が食べたかった。そこで目に止まったのがこの親子うどんだったわけである。

ついでに言うと、大衆食堂ってなんとなく雰囲気があったかくてホッとする。大抵、夫婦で営まれているので家族の匂いというものが自然とでてくるのかもしれない。

それはともかく、この親子うどん。美味しかった。鶏肉がパサつかずに肉の味がちゃんとするし、卵でとじられるときに使うダシにうどん汁の醤油味が足されるから見た目を裏切って味に深みがあった。

親子うどん。ざっかけない料理だか美味しいものだな。



by michikusajinsei | 2016-01-23 15:53 | Comments(0)

平成28年 鳴門

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ちなみにスーパーの昼ごはんは、こんな感じ。鳴門駅のベンチで。

情景的には佗しいが、食べているものは豊かな地の物です。

by michikusajinsei | 2016-01-22 08:06 | Comments(0)