昭和62年 越美北線(その2)*写真を追加しました

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4月26日、また一人、自分の青春の風景で思い出に残る人が世を去った。

石井義信。昭和61(1986)年から62(1987)年にかけてのサッカー日本代表監督である。

前にも書いたように僕は大学を落第しているのだが、実はそれは大学1年の成績で決まった。しかし通っていた学部の規定だとそこで留年とならずに2年にはそのまま進級させるが、3年には進級できずにもう一回2年生を履修しなさいという制度だった。成績が悪かったことを棚に上げていうのもなんだが、これは精神的にはなんとも堪える制度である。

この落第生という立場の2年間は精神的に本当に苦しかったが、最初の大学2年生時は特に修羅場だった。受ける授業も同級生もほぼ同じ。彼らとは普通に授業を受け談笑しているが翌年になるとその友人達は普通に進級していく、しかし自分は進級できない。さらに言えばこの2年時の成績がいくら良くても1年の時に落とした単位のため自分は進級できないのである.。

いわば予定された敗北を日々突きつけられ、それを噛みしめるような1年だったのである。
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とにかくじっとしていられなくて方々に出かけたのは国鉄最終日の思い出とともに書いたことがあるが、そうは言っても時間もお金も限度はある。第一、いくら旅行の費用はバイトで賄っていたとはいえ落第しても黙って学費を負担してくれている親への遠慮というか申し訳なさという気持ちも強かったから、実はこの一年はあまり遠出をしていない。ちなみに北陸によく出かけたのは、そんな外に出たい気持ちと、この状況で果たしてそんなことをしていいものだろうか、そういった相反する気持ちの交錯する中でそれらがなんとか折り合いが付く場所が北陸だった、白状するとそんな事情もあったのである。

それはともかく、そういったいたたまれない針の筵に座っているような日々の中で僕の心を慰謝してくれるものが鉄道の他にもう一つあった。

それがサッカー、別してこの2年間の日本代表チームだった。

この前の年、日本代表はメキシコW杯予選を戦い最終予選まで進出、最後に韓国に敗れたが攻守にバランスのとれた好チームだった。個人的には丁度受験が終わってホッとした気持ちで初めて見に行ったホーム初戦の北朝鮮戦があまりにも劇的な戦いだったため、急速に興味が増してそのまま最終戦の韓国戦まで日本代表を追いかけていった。

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追いかけたといっても全ての試合をこの目で見たわけではない。ホームゲームは実際にスタジアムで応援したが、アウエーでは新聞やテレビニュースでの断片的な情報でなんとか活躍を知ろうと躍起になった。

今と違って当時のサッカーは全く人気がなく、ホーム初戦、旧国立競技場での北朝鮮戦では観客がそもそも25,000人で肝心の日本代表の応援は5,000人。今でも憶えているが、スタジアム全体を飲み込むような北朝鮮応援団の迫力、対して少数ながらというか少数ゆえに結束していた日本代表応援団が応援エリアを分けずに正に呉越同舟で隣り合わせ。互いになるべく目を合わせないようにしながらも両者共に殺気を漂わせ騒然とした雰囲気、一触触発の危険性を孕んだ異様な緊張感があった観戦は後も先にもこの時だけである。

そして一月後の4月に平壌で行われたアウエーは更に事態は悪化。史上に残る完全アウエー。選手団以外は報道関係者のみで日本人サポーターは観戦を許されず、6万人とも8万人とも伝えられた観衆は文字通り全てホーム北朝鮮の応援である。もちろんテレビ中継はなし。どうなることかヤキモキしながら深夜のニュースでようやく0-0で引き分けたという情報が入った時の安堵感を昨日のように思い出す。

うって変わってそれから数週間後、五月晴れの中で行われたホームのシンガポール戦。爽やかな薫風と青空の中、一次予選勝ち抜きの祝祭的な喜びと解放感に包まれた国立競技場。試合もゴールラッシュで5-0の完勝。

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2次予選は予想外にも中国を破った香港、当時、英国租界の香港はそ独自に代表チームをもっていたが、試合会場はこの試合がこけら落としだった神戸ユニバ記念競技場。開始直後にマークがずれてキーパーとフォワードが一対一なったがシュートを打たせず、その場面の直後、こんどは日本が同じような場面でこちらはきっちりとゴールを決めるといった感じででまさに威風堂々の3-0で貫禄勝ち。アウエーゲームも疾風のようなカウンターで2点、得点は許したけど、PKを防ぎ2-1と連勝で勝ち上がりを決定。そして思い返せば対香港の二試合がこのチームの頂点だった気がする。勝つための歯車が全て噛み合い滑らかに回転するが如く試合が進んでいく。気負いも驕りもなく淡々としてはいたが、弛緩することなく自信にあふれた力強い一つ一つのプレーに逞しさが感じられなんて言うのだろう勝者の風格とも言うべき頼もしい雰囲気が選手たちの周りを包んでいた、そんな印象を感じられたならなかったのだ。
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そして迎えた最終予戦、昭和60年10月26日、当時のサッカーファンにはあまりにも有名なアナウンサーの中継第一声「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」

現場にいたので、その放送は聞いていないが試合開始を待つ間、確かにそんな気がしていた。不思議と負ける不安が湧いてこず、ただ勝てるんじゃないだろうかという漠然とした期待感が僕だけじゃなくスタジアム全体を覆っていた。

試合そのものは敗戦、でも後に伝説となる木村和司のフリーキックは自分がいたサイドのゴール真横、まさに眼の前で決まったし、後半もコーナーキックから主将の加藤久のバックヘッドはクロスバーを叩いて跳ね返るなど同点のチャンスはいくらでもあった。後に現場の選手たちは韓国に攻めさせられている、ボールを持たされていなされている感じだった、と述懐しているが同点目指して攻勢が続く後半、観客席では最後まで期待感が失われずに応援が続いていたし、また僕も声を張り上げていた。

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結局、この予選は突破できなかったのはご存知の通りだが、この年の3月から11月まで足掛け9カ月のロード、それは受験が終わりそれまでの中学高校時代の秩序(序列と言い換えてもいいが)からの開放感と新しい未知の世界を探す高揚感を思う存分味わえた。アナウンサーの言葉めはないが、目の前は曇り空ではあるけど、確かにサッカー日本代表の未来、そして自分の未来は、その曇り空の向こうすぐに青空がひろがっている、そんな気がした旅路の終点だった。(この項続く)

# by michikusajinsei | 2018-05-15 12:29 | 国鉄 急行 | Comments(0)

平成30年 京急横浜駅*写真追加しました 

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投稿をサボり気味でしてが、さらにパソコンが壊れてしまいました。

そうなると、無理にでも更新しようとする気持ちが出てくるのですからおかしなものです。

写真は、京急の駅ソバチェーンである駅めんやで食べたおろし天そば。

駅ソバの醍醐味は油の塊のような冷めたかき揚げを汁に浸して、油のまろやかさで醤油のカドが取れたそばつゆを飲むことにあると信じてやまないですが、大根おろしも同じく刺激が中和されかつ油のクドさが消えて意外なうまさですね。

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それにしても駅ソバがこんなに美味しくなっていいのでしょうか。

寿司も天ぷらもトロも、もともとの安っぽいカジュアルな料理が高級化していったそうですが、駅ソバも果たしてその道を辿るのでしょうか。これからどんな進化や工夫を見せてくれるのか、そんなことを感じてしまいました。

# by michikusajinsei | 2018-05-09 22:30 | 横浜 | Comments(0)

昭和62年 越美北線(その1)

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我が青春の旅路において、もっとも長く過ごしたところといえば、ここ福井駅である。

前にも書いたが当時の周遊券で関東からもっとも割安に旅行できるところが北陸地方、それは周遊券の額面が安いということもあったが、夜行急行や大垣行きを使って目的地まで行けたこと、さらにこれが実は決定的だったのだが深夜停車の列車がかなりあったため福井や金沢という北陸本線の大駅は終夜営業していたので待合室が夜通し開放されておりそこで夜を明かすことができた、つまり宿泊費がかからなかったからなのである。

中でも福井駅は街のサイズが北陸3県の県都の中で一番小さかったからか、深夜に待合室を利用する乗客も少なくて寝る場所を確保しやすかったし、また安くて美味しかったうどん屋さんが駅前にあったこともあって、僕にとって北陸路のいわば定宿のようなところであった。

とはいえ、殺風景な待合室。今から思えば、パソコンもスマホもない中でどうやって時間を潰したのか。思い出してみると待合室にもテレビはあったし文庫本は今よりも割安だったから1000円で数冊買えたからそんなものを見たり読んだりして時間を過ごしていた。

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そんな福井駅の滞在、いくつか思い出がある。

その頃、ハレー彗星の地球接近が話題になっていて、たしかその観測衛星を当時のEC(ヨーロッパ共同体)が企画して飛ばしていた。その実況中継をこの福井駅で聞いていたのを覚えている。実はこの時は大学で落第が決まった直後だった。もう逃げるようにして旅立ち、誰にも会いたくない気持ちで駅の待合室で過ごしていたのだが、あの時のなんとも言えない心細さ、敗北感と奇妙な解放感が入り混じった不安定な心理状態とハレー彗星観測のテレビ中継を追いかけていた記憶は今思い出しても、ちょっと苦味を感じるものがある。

また一度、女衒(?)から逃げ出した女性を捕まえるために追っかけてきた男たちと彼女を助けようとした人との間で大立ち回りを目にしたこともある。「どこかに隠れたぞ!」「あ、いた。追いかけろ」なんて怒号は飛び交っていたが、どうにも殺気というものが感じられずドタバタしているだけ、またそこに「おい、お前ら、若い子を捕まえてどうすんだ!」とどうみても関係ないおじさんが正義感から加勢したりもしたが、なんというか騒動の割には追う方にも逃げる方にも切迫感が感じられず、まるでドリフのコントを見ているような不思議な光景だった。

まあ、そんな珍事もあったが、ほとんどの日はただ静かな夜の時間が流れるだけ。やがてテレビも終わり、本も読み飽きるといつとはなしにうつらうつらと眠っていた。そして夜が明け短い眠りから覚めると、その日の目的地までまた列車に乗って出かける、それが北陸の旅における僕の日常。訪れた年や季節が変わっても繰り返された旅の記憶である。

# by michikusajinsei | 2018-04-25 06:54 | 国鉄 急行 | Comments(4)

1988 Paris (その3)

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3月末で終了した「越路吹雪物語」

終わった後も余韻を残し、久しぶりに見ていた満足感が高かったドラマです。
まあ、そう言っても僕が見ていたドラマはシンガポールでは朝ドラと大河ドラマ、帰国後は朝ドラしかないんですが、ドラマとしての放映環境が似ている朝ドラと比較しても質が非常に高い作品ではないでしょうか。

事実、視聴率も平均して7%前後と、この数字は昼ドラという時間帯としてはかなりの高視聴率だそうです。

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このドラマについて感銘を受けたので放映途中に一回、いわば瀧本美織賛歌としてこのブログでも書きました。越路吹雪の青春時代を演じた彼女の演技は本当に素晴らしくて、毎回、彼女の感情豊かな表情や声音に魅了されていたものです。そしてそう思っていたのは僕だけではないようで、ネットの評判もすこぶる良いよう。そりゃそうですよね。このドラマを見ていれば、彼女の輝きは誰の目にも明らかでしたから。

一方、イマイチだったと言われるのは、後半生を担当した大地真央。こちらは越路吹雪ではなく大地真央ショーをみているようと言われて、瀧本美織が続投したほうが良かったんでは、というのが専らネット上の評判。

正直、僕も、瀧本美織の活躍をもう少し見てみたいという気持ちはありましたし、大地真央の個性がより強く出ていたことは否めないとは思います。

でもねえ、だからと言ってミスキャストとは言えないでしょう。

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僕は越路吹雪の全盛時代をリアルタイムでは知りません。かと言って中学生の頃まで生きていた方ですから同時代での存在感を全く知らないわけではないです。そして、その頃の印象を一言で言えば「ゴージャスなおばさん」です。

いい意味でスターの虚像がきちんと管理されていた時代、彼女はまさに堂々したスターを演じるためにきらびやかな衣装を纏い、派手なメイクを施して大衆的な存在感とは無縁な世界をつくりあげました。そしてそれは盟友、岩谷時子の紡ぎ出す歌詞の世界の具現化でもあります。

ある種の大人の物語、夢の世界。半径数メートルの範囲で展開される人間模様と人生経験で構成されている昨今のポピュラーミュージックとは対極にある世界です。

これは良し悪しではなく、まさに時代の風景として捉えるしかないと思いますが、そういう前時代的なスター像を描くとしたら、同じような空気感をまとっている必要がある、その意味で円熟期の越路吹雪を造形するためには大地真央の持つ現代においてはやや鼻につきかねない過剰なオーラが不可欠だった、そんな風に思うのです。

瀧本美織の弾ける笑顔は、戦中戦後であっても平成末葉の今でも変わらない青春の輝き、異なる時代をつなぐ同質性を見事に表現し、一方、大地真央の大地真央でしかない圧倒的な存在感は、その存在感そのものがあの昭和と言う時代の表情を表していた、そうは言えないでしょうか。
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また、このドラマ、脇役陣の好演もたくさんありましたが、とりわけ感じ入ったのは藤本真澄役のデビッド伊東と若き日の内藤法美(越路吹雪の夫)を演じた長谷川純です。それぞれ本人の年齢は51歳と32歳。そして役柄上の年齢はおそらく藤本が40代から50代にかけて、内藤は30代前半でしょう。

デビッド伊東はプロデューサーという職種のある種の軽さと、経営者そして壮年期の男性の持つ重厚さの両面、長谷川純には青年から大人に変わる時期の落ち着きというものが感じられました。いずれも昭和中期に生きていた世代の、それぞれの実年齢に相応しい役柄を醸し出していたんですが、実はこれ、意外と現在の役者で難しいように思うんです。

老若男女を問わず、昭和の頃と比べると肉体的にも精神的にも今の人間は年齢の8掛けなんて言われます。だから昭和の時代を舞台にすると、特に30代以降は、だいたい役柄の年齢から10歳くらい老けた人がその役を演じてちょうど釣り合う感じ、ですか。実際、この作品の大地真央自体、その代表例でしょう、還暦越えの彼女が4-50代の越路吹雪を演じていたのですから

しかしこの二人に関しては正に実年齢と役柄の年齢が自然に一致していた、つまり昭和という時代に生きていた人間の風格が滲みでている、そこにこの二人の、役者以前に人間としての深みというものが見えて感銘を受けたのです。

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ところで、このドラマの視聴を楽しんでいる間、結局、今まで見続けていた朝ドラ「わろてんか」の視聴を復活することはありませんでした。見ていないので、このドラマ全体の良し悪しを言うわけにはいきません。でもこのドラマを見て改めて思ったのは、放映期間が半年というのは長すぎやしないか、ということです。

このドラマの枠は20分ですが広告を抜けば正味15分弱ですから朝ドラとほぼ同じです。それで59回。一方、朝ドラは151回。倍以上、ざっと100回近いドラマを別に作り上げなければいけない。これは、相当な負担だと思います。そのために、無理な話だてや不要なエピソードの連発に繋がるのではないか、そんな気がします。実際、「ひよっこ」や「べっぴんさん」も気合の入った部分のストーリーは素晴らしかったのですが、一方で「なにこの展開?」みたいな無理筋の部分もありドラマ自体の完成度を損なっていたストーリーがあったのも事実です。そういった点を考えると、今の半年一作ではなく、4ヶ月に一回程度がちょうどいいんじゃないか、そんな感想を持ちましたね。でも逆に言えば、半年間の長丁場をダレさせなかった「あまちゃん」や「カーネーション」はすごいと思います。

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とはいえ、もうこのドラマは終わってしまいました。劇中、繰り返し流れた素敵な間奏曲は未だに頭の中で鳴っていますが、新年度フレッシュな気持ちになって、改めて新しい朝ドラ「半分、青い」を見始めています。

そして昨日、いきなり衝撃を打たれた回を見てしまいました。昭和55(1980)年、小学校3年生の女の子が突然、片耳の聴力が失われる回です。

「...治らないのでしょうか。何か方法は」
「いえ」

「お母さん、実は片耳が聞こえない患者さんは結構いらっしゃいます。しかしみなさん、頑張って....」
「みなさんの話はどうでもいいんです。私の娘は一人です」

この医師と母親の会話に込められた絶望感、いたたまれなくなるシーンです。

うちに帰り、その事実を娘に伝える両親

「鈴愛の左耳はもう治らんやと、今の.....ままやと」
「ずっと?」
「うん」
「一生?」
「...うん...」
「もう私の左耳は聞こえんの?」
「うん」
「そうか....もう海から帰ってこんか」
「バイバイって言えんかったな」
「元気な時の左耳にバイバイ今までありがとなって言えんかった」

どういう気持ちで言ったか、そして聞いいたか。

僕もいちおう人の親です。我が身に置き換え、その時の苦しさや悔しさ、やるせなさを想像すると胸がつまり息が止まりそうになってしまいました。

「子供は生きているだけで親孝行」

自分もまた子であり、そして親でもあります。この言葉以外に言うべきことは出てきません。そして一夜明けた今朝もこのシーンの衝撃とその時に感じたこの気持ちが抜けてきていないのです...。

最後まで見続けこのドラマにどんな感想を持つかわかりません。でも始まって2週間、そしてこれから9月まで半年間、このドラマを生活のリズムにする日々となりそうです。

# by michikusajinsei | 2018-04-13 07:16 | フランス | Comments(2)

昭和60年 筑豊(その4)

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運炭列車、鉄道の全盛期の時代に憧れていた自分が見たかった列車のかたちである。

僕が高校から大学にかけて、つまり鉄道写真を撮り廻っていた時代、それは国内炭鉱への挽歌が奏でられた時代であった。国内炭鉱生き残りを賭けた最後の政策とも言える第7次石炭政策答申が出されたのは高校一年の昭和57年、そしてプラザ合意による急速な円高で劇的な輸入炭の価格低下を受けて国内炭鉱の安楽死路線を決定した第8次石炭政策答申が昭和62年で2回目の大学2年の時である。

逆に言えばこの5年間、国内炭鉱が生き残り、あるいは有利な閉山条件を求めて揺れていたいた時期でもあった。だから運炭列車に憧れはあったけれども、物見遊山のしかも学生が炭鉱鉄道、あるいは炭鉱の町という現場には脚を踏み入れるのに躊躇する粛然とした雰囲気があった。

特に北海道の炭鉱は経営の厳しさもあるが、なによりも爆発事故の記憶が新しい時期である。いくつか運炭鉄道は残っていたが、自分が訪問したのは、唯一、旅客営業を行っていた三菱南大夕張だけである(その時の記録はhttps://anosyaryo.exblog.jp/20705701/)

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一方、おなじ産炭地の九州はどうかというと、筑豊の炭鉱はすべて閉山していた後であったが、三井三池、三井松島という平成年代まで生き延びた炭鉱が健在だったので国鉄本線上でそれなりに運炭列車というものを味わうことができた。

その中の一つがこの写真である。

運炭列車が健在と言ってもそれだけで編成が仕立てられるほど供給量はなかったようで、この列車のように普通の貨物列車に併結されて運用されているのが普通だった。

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この車輌、セラという記号。貨車のそれは結構、運ぶもので表されるものが多い。このセは間違いなく石炭のセであろう。続いての表記は重量で貨車の場合は軽いものからムラサキの一字がつけられるので軽量級の車輌、北海道の同種の車輌はセキといわれるタイプだから重量級、おなじ国内でおなじものを運ぶのになぜこうも好対照な車輌になったのか不思議であるが、九州へ旅した時、一番見たかった車輌の一つであった。

# by michikusajinsei | 2018-04-02 07:15 | 北九州 | Comments(2)