令和8年 謹賀新年

ずいぶん長くこのブログは更新しませんでした。このまま自然消滅させる考えもないではありませんでしたが、自分にとってはこの10余年、この場での年頭言を持って人生を区切ってきたので、少なくとも今年は変わらずにこの場にて思うところを述べていきたいと思います。
さて、昨年は自分にとって特別な一年でもありました。それは3月に母、そして12月に父を送り出したことがあったからです。それぞれ88歳、92歳、高齢化の世の中、稀な長寿とは言えませんが、天寿とも言える年齢、二人とも健康な状態を比較的長く保ち長患いではなく、床について約ひと月で静かにこの世を去りました。
ちなみに僕の年齢が58歳ですので両親との思い出は長い月日の中でそれなりにありますが、今、胸に去来するのはその思い出よりもこの一年の日々、特に年末に父を看取った時のことでしょうか。それは母が亡くなった日の出来事からの話になります。
母が亡くなったのは3月18日の昼下がりという時間でした。年末に入院し一時は近親者を呼んでくれと言われるほどに危なくなりながらも、奇跡のように蘇り退院できました。しかし弱った身体を襲ったコロナと肺炎に抗う力は残っていませんでした。連日の看病で身体を摩り手を握っていました。しかし徐々に握り返す力も弱くなり、もう長くはなさそうだと思いながら、いざ。その時が来てみるとなんとも言えない感情に襲われました。「もういないんだ」
しかしそれを押し殺して務めなければならない子供としての役割があります。それをこなして帰宅し、気を紛らわすために録画していた番組を見ました。その番組は朝ドラ再放送の「カーネーション」、物語の終盤、主人公糸子に孫世代の3人が商売のことで関わるようになるのですが、その中の一人の父親が亡くなった回でした。父親が亡くなって、寂しさと共に事業を自分が引き継ぐ心細さの訴えに彼女はこう答えます。
「どないに辛くても繋いで繋いでやっていくしかないんや。」と慰め、続けて奇跡のような言葉が発せられます「なあ、譲、キラキラを剥がされて剥き出しになってしもうた40男の男の本性は、あんたが思うてるより、もっとずっと綺麗なんやでぇ。」正直、画面を見ていてグッと来ました。この日にこの場面の放送に出会う奇遇さも感じました。ただ、この時、まだ父は存命でしたので、心のどこかでまだ他人事のところがありました。さらに言えば、残された父の生活をどのように安定させるかの方が感傷よりも先決でした。高齢故に頭も身体も多少衰えはありましたが、まだまだ矍鑠としていたのでなるべく健康を保ち更に寿命を伸ばしてもらうつもりでいました。
しかし、11月下旬に父が入院し、主治医から見通しが明るくないことを聞かされ、率直に言って狼狽えました。どうしたらいいか。
主治医の意見だけではどうにも諦められず、今後について長きに亘り介護を経験された人生の先輩と医師の友人に相談したのですが、2人とも期せずして同じことを僕に伝えてきました。「長男の役目は親を看取ること、その苦しむ姿、命を手放す姿を見ること、そして場合によっては自分がその苦しみから解放してあげる決断をしなければいけないことだ。それらの中で悩み感じること、それが親が自分にしてくれる最後の教育だよ」と。
徐々に弱っていく父の姿を見て彼らの言葉が側々と心に響いてきました。その日が少しでも先になれば良い、そんなことを思いながら日々を送っていましたが、その日は急にやってきました。直前まで安定していた心拍数に急な低下が見られてから程なく、でした。自分に切迫した状況の電話があった時刻にこの世を去っていたことを病院に着いた時に知りました。冬の陽は早く落ち、既に夜を感じる時間でした。父の安らかな顔を見ながら、父との過去の愛惜や葛藤のこと、とうとう自分の寄るべき柱がなくなったんだ、という感慨、そんなことを考えていました。
父が亡くなったのが12月24日、最初にしなければいけない様々なしきたりをこなした上での30日、僕は地元のバーに行きました。そのバーであるお酒が残っていれば年末に飲もうと思っていたからです。そのお酒が冒頭の写真HART BROTHERS 1966年蒸留、2005年ボトリングというウヰスキーです。自分自身は早生まれなので実は干支が異なるのですが、僕たちの学年は今年から60年前の丙午誕生世代、まさにその生まれ年に蒸留されたお酒を飲み、その巡る年を迎えたい、そう思っていたからでした。
年末も押し迫り、閑散としたバーに座りマスターからひとしきりこのお酒についての由来を聞き、飲み始めました。あくまで丸く、ウヰスキー特有の刺すような刺激はほとんどなく、角が取れまろやかな甘みの中に微かな塩気を発しながらスルスルと喉を降りていきました「うまい。」この一言以外、言葉にならずしばし沈黙してぼんやりと余韻に浸っておりました。
このウヰスキーが樽の中で熟成を始めた頃、私たちの親世代はどんな希望を持って私たちの誕生を待ち、祝ったのだろうか。月日が流れそれから39年後の樽開け、今から21年前、平成17年、西暦2005年、40歳近くなった私たちは、それぞれの持ち場と器量で自分たちの世代が担うべき時代へと足を踏み入れていた頃、その時、自分は何に希望や怒りを感じていただろうか。そして60年目の今、後輩たちにその場所を恙無く譲るために、たまにボケをかましながら肩の力を抜いて助言している自分がいる、それが僕に限らず同世代サラリーマンの平均的な肖像でしょう。そういったことを思いながらこのウヰスキーを飲み始めた時、3月の朝ドラの言葉が急に蘇り胸に迫ったきました。
昭和8年、平和な時代の帝国日本、台湾に生まれ裕福な少年時代だったようですが戦争の終わりによりそれは一変し引揚というどん底からの再出発、やがて神奈川県で職を得て横浜生まれの母と結婚し一家を築き上げた男。その男の命を受け継ぐ心持ちは果たして充分なのか、同時に間も無く始まる一年が終わる頃から程なくサラリーマンとしての区切りを迎える自分はこの後に何を目指せばいいのか。
そう、還暦を迎える前にして剥き出しせざるを得なくなった自分の本性が試される歳であり年、令和8年丙午。その本性を綺麗にするのは、嘘も隠しもせずに自らを曝け出して歩いていくしかないのでしょう。
みなさま、今年1年、ご指導、ご鞭撻の程、よろしくお願いしたします。
道草人生拝
by michikusajinsei | 2026-01-03 14:32 | Comments(2)
寒中見舞い申し上げます。
昨秋お会いした時から御父上の病状が一気に悪化したのですね。ご愁傷さまでした。
当方の母親はなかなか逝ってくれず、名古屋東京を何度も往復させられました。早すぎる死は哀しいですが、遅すぎるのは…子供としていつかは通る道にもいろいろありますね。
昨秋お会いした時から御父上の病状が一気に悪化したのですね。ご愁傷さまでした。
当方の母親はなかなか逝ってくれず、名古屋東京を何度も往復させられました。早すぎる死は哀しいですが、遅すぎるのは…子供としていつかは通る道にもいろいろありますね。
0


