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昭和62年 山陽本線

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大きな諦念と小さな挑戦

この何年か、いやもう少し長いか。今、52歳の自分が40代になった頃からであろうか、いつしか人生というものはそんなものではないか、そんな風に思うようになってきていた。

なにかきっかけがあってそう考えるようになった出来事があるわけではなく、日々の生活の中で自分と周りの関係、あるいは上司や先輩の動きを観察していて自然とそれを感じるようになった、ある面ではそういうところもあるし、一方で、そう思わなくては精神の平衡を保てないような苦しさが長期間続くような状況だったからだとも言える。

ただ、その思考の源流を自分なりにたどればやはり若い頃に出会った二つの言葉というか人生の先達が発したアフォリズムが通奏低音として僕自身の思考リズムの基調として底に流れていたからかもしれない。

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一つは高校3年、受験勉強一色に染め上げられた頃、ある英語教師の発した一言、
「君たちは人生の前に大きな希望が広がっているとか、未知の可能性があるとか言われているだろう、あれは嘘だからな。君たちのこれからの人生はまったく正反対、可能性というものを一つ一つ閉ざしていくことだからな。」

なにかイベントなり事件が起こって改めて発せられな言葉ではなく、日々の授業の何気ない雑談のような流れの中の淡々とした一言だったので、教室の中の空気が変わるということもなかったが、今、思い出しても高校生活の中で覚えている教師の教えといえばこれくらいだと言えるくらい自分にとっては強く印象に残る言葉だった。

その理由の一つは当時の自分の学力と興味の方向性から私立文系の大学しか行けそうもなく、それは別に悪いことでもなんでもないのだが、進学校といえる学校の雰囲気の中ではそれは一面、一番出来の悪い生徒の象徴でもある。言って見れば可能性を既にして閉ざされた状況でもあるし、またそんな少年なりの閉塞感を抱えた中にあったからこそそれが逆説的に人生の可能性を見出すような言葉のように思えて勇気付けられる、そう思ったからである。

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もう一つ、それはその少し前、小学校高学年か中学性の頃だったか。それはある雑誌を読んでいてその中で目に止まった言葉である。

その雑誌とは「暮しの手帖」その連載記事であった古谷綱正「私の映画日記」その連載の中で紹介されていたルキノヴィスコンティ監督晩年の作品「家族の肖像」その記事の中で引用されていたヴィスコンティ監督の言葉「私はこの作品にでてくる教授の存在を通じて我々の世代の敗北を描きたかった。」

もちろん、この文章を読んだときは世代なんて概念がわかるはずもない幼い頃だが、両親および母方の祖父母と同居し、また毎週のように父方の祖父母とも交流があった環境で育ったせいか、自分の生を超えた時代の匂い、というものを幼いなりに無意識に感じていたためであろうか、こんな言葉に出会い、そしてその意味を人生の中で折に触れ考えるようになったのである。

ただ、それは字面としてこれを理解しようとした、そういうわけではない。この言葉の背後に、ある一つの世代が辿った運命、あるいは担った時代とその潮流というものがあったのではないか、両親と祖父母、二つの世代の生き方と彼らが生活を営んだ時代背景というもの、自分にとってのそれらは果たしてどんなものか。

「激動の」という形容詞がついて回った昭和という時代を背負った世代に対して平成という時代の自分たちはどんな時代を演出するのか、そんな自問自答を社会に出て、その営みの現実を目にするにつれするようになったのである。

by michikusajinsei | 2019-05-22 07:16 | Comments(4)

Commented by シグ鉄 at 2019-06-11 17:21 x
君たちのこれからの人生はまったく正反対、可能性というものを一つ一つ閉ざしていくことだからな。
身もふたもないようで真理をついていますね。

誰の言葉だか忘れましたが・・・
俺の人生こんなものかな、そう思えるようになった頃、茄子の美味さがわかった。

全く似てませんね・・失礼しました。
Commented by michikusajinsei at 2019-06-11 22:33
シグ鉄様、コメントありがとうございます。

確かに成熟することの味わいは、特に男の場合はワインのように人の手を加えて熟成したものの芳香に酔うことを覚える頃よりも、素朴な薄味の煮物の美味しさがわかり始める頃に、ようやくわかり始めるのかもしれません。

でも、やっぱりカルビを食べに行きたくなってしまう煩悩にさいなまされる時もたまにはあります(苦笑)
Commented by 風旅記 at 2019-06-22 23:35 x
こんばんは。
今日も興味深く拝見させて頂きました。
諦念、確かにそのような感覚が常に自分の中にある、しかしそれは何も、放り出してしまうような距離を置く感覚ではなく、自分のために自分を落ち着かせるためなのかもしれません。
列車を楽しみに旅に出たときに、自分の心が鈍くなってしまっているのではないか、なかなか心が震えるようなことがなくなってきた、と自分が心配になることがあります。
一方で、もし期待値を下回るようなことがあっても、それはそれで納得できるようにもなってきた、それら全体として、諦念、そういうものだと理解する頭と心の均衡なのかもしれません。
風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com
Commented by michikusajinsei at 2019-06-30 22:36
風旅記さん、コメントありがとうございます。同時にコメントの返信が遅れて失礼いたしました。

確かに新鮮さに対する感性は年月を経ると鈍くなるのはいたしかたないところがあります。その理由の一つは人生に対し用心深くなり心の中期待値を無闇に上げないようにすることが大きい。でも、なくなるわけではないと思います。

無常と書くと、多くの人は「無情」という感覚を心に浮かべるようですが、元々のこの言葉のいわれは、一つの場所に停滞しないで日々変わる出来事、自分を受け入れるという意味です。日々の変化に感動する感覚を持ち続けるのは簡単ではないですが、それはそれで人生の挑戦の一つではないか、そうも考えています。偉そうですが。