昭和62年 北陸鉄道

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さらに言えば、もう一つ思うところがあった。エリートとノンエリートの距離である。もっと正確に言えばエリートならざるものの葛藤であろうか。

石井監督の青年時代、大学進学率は10%以下、今から見ると想像の外だが、県下一番の高校に進学しても大学に行けなかった秀才たちが当たり前にいた時代である。衆に優れた能力がありながら、そしてそれが認められていながら、同じラインでスタートできない人たち。彼らの気持ちはいかばかりか。

サッカー界もまた例外ではない。協会中心部の多くは早稲田や慶応、教育大といった大学を卒業し三菱重工や古河といった名門企業に属してプレーしていた人たちが引退して指導者となっていた。昭和的なアマチュアリズムとは一面、恵まれた一部の人間で成り立っていた世界である。対して上に書いた石井監督の経歴は正に叩き上げ、高卒で新興チーム出身、決して主流のそれではない。しかも切り札と言われた人物の後任である。重圧や孤独感の深さを人一倍感じていたのではないだろうか。

しかし、そういった自身を取り巻く環境の中でも、世論に迎合することも、かといって徒らに反発することもなく淡々としかも勝つために何をすべきかを考えて着実にチームを作り上げていった。

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選ばれた選手も同様だった。

代表に選ばれる選手には2通りの人材がいる。一つは誰が監督になっても選ばれる選手、実力が監督の手腕を越えたと評すべきか、彼らの能力を軸にしてチームが組み立てられる力量の持ち主たちである。

もう一つは、監督が自らの戦術に必要不可欠だと考えて招集する人材、オールスター的な感覚からは必ずしも当代随一という能力ではないが、その監督の構想を具現する特徴を持った選手たちである。

石井監督のサッカーでは後者に味わい深い選手たちが何人かいた。とりわけ僕が印象深かったのはディフェンダーの金子久と中本邦治、フォワードの手塚聡である。彼らは代表選手としてはほぼ石井監督の時代のみ選ばれた選手である。いかつい風貌が特徴の金子は試合中、正に鬼神のような面相でヘッドでボールをクリアしまくっていた。接近戦でのマークがうまく、出身チームでは後の代表監督となる岡田武史、代表では加藤久というディフェンスリーダーとして傑出した指導力の持ち主に指揮されると力を発揮するタイプであった。

中本邦治は非凡な平凡さと形容すべきか、特になにか強烈な個性や得意技があったわけではない。しかしディフェンダーに求められるまず第一の能力は、相手チームのプレーのスピードを落とすことでありマークした相手の自由度を制約することである。その点において中本の安定したマンマークは特にフォワードの選手のスピードを落とさせることに長けていた。

しかし何と言っても石井一家を象徴するのは手塚聡である。厳密に言えば彼はその前から代表自体には呼ばれていた。実際ツボにはまった時の爆発的なシュート力は当時のサーカーリーグで比肩する選手はいなかったが柔軟さに欠けるため森監督の頃は代表に呼ばれても控えに甘んじていていることが多かった。しかしそのプレースタイルは石井監督のサッカーには非常に相性が良かった。攻撃において柔の水沼を補完する直線的で力強い突破力も魅力的だったが何と言っても彼のプレーが胸を打ったのは泥臭いまでに相手ボールを追いかける姿勢である。また時には中盤より下がってボールをクリアすることさえあった。そういったフォワードらしからぬプレーは石井サッカー批判の格好の標的になったが、僕は戦術を越えて彼のその姿、ひたむきさ、あるいは選ばれたが故にその責任を全うしようとする姿勢に心を打たれた。

2次予選、国立のシンガポール戦だったか、右サイドを突破して強烈なシュートをたたき込んだ得点。得点自身も豪快で強烈な印象だったが、なによりも感動したのは帰宅してみたテレビの映像。試合が終わってロッカールームに戻る通路で号泣している彼の姿だった。
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こう言っては何だが、2次予選のシンガポール戦は実力差もあったし、試合自体に特別な雰囲気や性格があったわけではなく普通に実力を発揮して勝てばいいだけである。勝ったからといってオリンピックに出られる段階ではないし難敵相手にようやく勝ったというわけでもない。

ほとんどの選手にとっては勝つことは嬉しいことだったろうし、負けなくてホッとしたという気持ちはあったろうが勝って感激したというレベルの感情が湧き上がる試合ではなかったはずだ。それに手塚自身、デビューしたてという歳でもなく、もう30近い年齢、ベテランと言ってもおかしくないキャリアの頃である。

にもかかわらず、あたりはばからず号泣。

彼がどういう人生を送り、そしてこのグラウンドに立っていたか、それは詳しくは知らない。日本代表に継続的に選ばれているくらいだから若い頃から一目を置かれていたことは確か。ただ選ばれてはいたが華やかに脚光をあびるほど活躍していたわけではなかった。

代表の候補になり合宿に呼ばれる、そしてメンバーに選ばれる時もあれば呼ばれない時もまたある。そして呼ばれてもスターティングメンバーとして出場することは滅多になくベンチウォーマー。何回かに一回、後半に少し出場して終わり。あけすけに言えば戦力というより一軍の練習相手として呼ばれているのに近い。

代表に選ばれ続ける能力と実績がある、しかし選ばれてもそれを発揮する機会がもらえない。そんな中途半端な状況に対して屈託がないはずがないだろう。

いったい、何が足らないのか。能力なのかチーム戦術への適応性なのか。確かにエースはいる。しかしエースだけではチームは成り立たない。エースの代わりにはならなくても自分の役割は果たせるはずだ、少なくともその機会を与えてもらえないか。

そんな葛藤を抱えていた中で巡ってきた機会、そこで出した一瞬の答え、この時の手塚聡のゴールと彼の試合後の涙はまさに自分自身の存在価値を発現できた者のみが味わうことができた喜びそのものだったのではないか、そんな風に思えてならなかった。

いったい自分は何になれるんだ、あるいは何かを実現できるのか、誰か自分を見てくれる人がいるのか、何よりもどこに自分の居場所があるのか。そんな想いに迷いながらプレーを続け、ついにそれを見つけた瞬間、それが彼にとってこのゴールだったのではないだろうか。

今から見れば自分の未熟さや努力不足を脇に置いていておこがましい限りだが、そうした彼のひたむきさに自分自身を投影して強い共感を覚えていた。
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とはいえ今書いてきた選手の活躍は実はそれほど注目されておらず、相変わらずチーム自身は批判に包まれながら、それでも勝ち進んでいった。

ネパール、タイ、中共との組み合わせとなった最終予選。ネパールは圏外だったが他の3国といえば、戦力的には日中はほぼ互角。タイがやや落ちる。とはいえどのチームでもホームでは勝ち点を稼げる可能性が高いと考えていた。とういうことはアウェーの戦いが勝利を決める。もちろん勝てればいいが引き分けに持ち込めれば勝算が立つ。これが3チーム共通の置かれた状況。そして必ず何処かのチームが取りこぼす、それが致命傷になるのではないか。

それがこの予選を俯瞰した戦力事情である。

日本の初戦はバンコクのタイ戦。その4年前。自分がサッカーに再び関心を持つ直前、ロスアンゼルスオリンピック予選の初戦でこのタイを甘く見て5-2と予想外の敗北。これで歯車が狂って全敗で予選敗退の歴史がある。

結果は慎重に戦っての無得点引き分け。テレビ中継があったわけではないのでこの試合自体の出来はよくわからないが、まずまずの出足で次のネパール戦はホームアウエーとも完勝、ホームのタイ戦は取りこぼすことなくきっちり勝って最終戦の日中対決となった。この時点で中共はタイとネパールに全勝。ホーム&アウェーで1勝1敗ならば勝ち点差で中共が勝ち抜けという状況で日本代表はまずアウェーで戦わなくてはならなかった。

そんな大一番でも相変わらずテレビ中継はないのだから、当時の日本代表の注目度は好事家レベルの関心にとどまると判断されていたのであろう。そして自分自身、正直、勝つことは期待していなかった。なんとか引き分けに持ち込めないか、ホームに持ち込めればあるいは勝機が得られるかもしれない。なんとか負けないでくれ、歯噛みと焦燥感が混じりそんな祈るような気持ちでその晩を送っていた。時計を見ながら結果が入る頃、テレビのチャンネルを回してはニュースのある局で結果の報道を待った。
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確かNHKだった。1-0の勝利を伝えるアナウンサー。映像はない。耳を疑った。本当に勝ったのか。バンコクのアウエーでも得点できなかったチームが堅守の中共を破ったのか。

翌朝の新聞でこんどは写真入りの報道。間違いなかった。石井一家はアウェー広州でその練り上げたチーム力を遺憾なく発揮し勝利を収めたのだった。後にこの時の代表チームを追ったノンフィクションを読んだ時に知ったが、試合後の慰労会で中心選手の奥寺はこう言ったそうである「攻めさせてやってんだ」

横綱相撲の言葉である。

あとはホームの東京を残すのみ、引き分けで予選突破。俄然、有利な立場になった日本代表の最終戦。大きな期待を持って応援に向かった。雨が降ってたが特にそれは気にならなかった。ようやく夢が実現する歓喜を目にすることができる、そんな気持ちでいっぱいだった。そして開始早々に右サイドの水沼からフリーの手塚にパスがつながり強烈なシュート、GKに止められたが力強い進発にさらに期待が膨らんだ。

結果から言うとチャンスはこの一回のみ。初戦で得点を決めた原博実が完璧に抑えられ守備陣がクリアーしてもそのボールはフォワードにつながらない。セカンドボールを悉皆、中共に拾われなんども揺さぶられ続け、とうとう持ち堪えられずに前半終了間際に失点してしまう。自分の目の前の出来事だった。中共のフォワードがフリーになった瞬間「あー」とおもわず声を上げてしまった。そして身体を突っ張らせた。その直後、ゴールが決まった。

守備型のチームは先取点を取られると弱い。後半に入っても目立った反撃ができず得点の匂いが全くしないまま時間が過ぎていく。2年前の日韓戦の時は追いつけるのではという雰囲気が最後まで持続し観衆の熱気も衰えなかったが、この試合は後半途中から諦めムードが漂いだしていた。やがて中共に追加点がはいり万事休す。2-0での敗戦。

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覚悟していたとはいえ敗戦という事実に帰宅する足取りは重かったんだと思う。30年前の話であるのではっきりした記憶はない。どうやって気持ちを入れ替えるべきか、そんなことをぼんやりと考えていた気がする。ただ覚えているのは電車での帰途。総武線で代々木まで行き山手線に乗り換えた時だったか、そこでは淡々とした夜の日常が広がっていたことである。代々木駅のホームにも山手線の車内にも熱狂や悲嘆といった高陽した感情はなく人々は静かに移動し散っていた。

自分はこの2年間、夢を追いかけていた。何かを成し遂げるという夢を日本代表というかたちのそれに託して追いかけていた。最初は大学に入って生活や環境が変わったことの浮遊感を埋めるような気持ちだった。自分が知らない世界を見てみたいそんな気持ちから日本代表を追いかけ始めた。しかし途中で落第という現実がそれを少しばかり変えることになった。挫折感である。それから立ち直るために何かが必要だった。

それは何だったのだろう。やはり夢か。いや夢という抽象的なものではなく具体的に何かを成し遂げるということ、それに関わることだった、陳腐な言い方だがそれによって世間の前に立てる勇気だった、その時は漠然とした思いだったがそんなものではなかったか、と今にして思う。

そしてこの時の石井義信の代表チームはそういった自分の心境と共鳴するものがあった。広州での勝利以外に拍手されることはほぼ無かった。選手も個々の才能ということだけで言えば、第一人者たちが選ばれたと言えないところがあったのも事実である。しかしそれでもここまで来ることができた。それは批判を受け続けても腐ることなく、そして努力を惜しみなく費やした個々の選手とそれをチーム力に昇華させた石井監督の手腕である。

負けたことは悔しかったが挫折感とは違う新たな勇気というか今度は自分が何かしなければ、という気持ちが湧いてきた。そして帰宅する電車の中で目にした淡々とした日常風景に、批判や評価は好悪どちらであっても所詮はうたかた、大事ではあるがそれが全てではないと感じていた。そう僕はこのチームと一緒に夢を見、その夢は散ってしまったけれども別の地平をようやく見つけることができた。同時に日本代表との旅も終わった。

このブログ記事を書いている間にロシアワールドカップが始まり、直前の状況からは思いも寄らない日本代表の活躍は世間を刮目させた。30年前、アジアの壁が破れずに呻吟していたことを比べれば信じられない時代である。むろん僕も試合結果に一喜一憂していたし楽しませてもらった。

しかしやはり僕にとっての日本代表はこの2年間、森、石井の2人の監督時代に尽きる、特に石井監督の時代に。この2年間、大げさに言えば自分の人生を賭けて日本代表を追いかけていた。日本代表の消長が自分自身の存在証明であるかのような気持ち、祈るような勝利への想い。後にも先にもそんな気持ちでひとつのチームを追い変えたのはこの2年間だけである。もちろんこの後もサッカーへの関心は持続しているが、この時のように自分自身の精神状態やとりまく状況と重ね合わせて見るようなことは無い。それくらいこの時の代表チームへの自分の想いは深く熱かった。

そしてこの試合結果は僕にとってはひとつの終わりであったが日本サッカー全体で言えば、これが始まりだった。この2つの敗北がプロリーグの発足に直接つながり、多少の浮き沈みはあれど今日の隆盛を迎える端緒だったからである。30年という月日、当然ながら今の選手たちに森監督や石井監督から直接薫陶を得た人間はいない。ただ彼らの実績と苦い経験があったからこそ、それを克服するものが何かを求める努力が続き、優勝候補と互角の試合を演じられるこの日を迎えられたである。

試合会場で見かけたことはあったが、直接話したわけではないこの二人の監督は自分自身にとって人生の進む道にある光を与えてくれた恩人である。森監督は一足先に数年前に旅立ち、そして石井監督もまたこの世を去った。故人の霊に哀悼をささげると同時に、青春期の彷徨の中、道が見つからずに苦しむ中で「生きてゆくとはこういうことだよ」と日本代表というチームを率いることで示してくれた彼らに、届くわけではないが感謝の声を伝えたい気持ちでいっぱいである。

by michikusajinsei | 2018-07-14 08:46 | 北陸鉄道 | Comments(0)