昭和61年 氷見線

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前任の森監督は高校時代からスター選手。早稲田大学から三菱重工、そして代表でも銅メダルをとったメキシコ五輪に出場している。指導者としても早い頃からいずれは代表の監督にと嘱望された存在だった。生まれも昭和18年だから当時は30代後半から40代前半、年代的には選手にとって兄貴分のような存在、まだ選手としてもプレーできるような若々しさを持った青年監督だった。

一方の石井義信さんは、昭和14年の生まれで高卒で東洋工業に入社だから昭和33年か。特にサッカーの才能を見込まれてというのではなく一般試験で入社。その入社した東洋工業は草創期の日本サッカーリーグの盟主でリーグ創設から3連覇を成し遂げたチームである。高卒で入社しサッカー部に入部してチームの主力になり、また記録によれば昭和37年に一度だけ日本代表に呼ばれているので選手としての実績も残してはいるがむしろ花開いたのは監督としてである。

請われて新しくサッカーチームを結成した藤和不動産に選手兼コーチとして転職、県リーグの4部から4年で最高峰の日本サッカーリーグ1部に昇格するのに貢献。そしてそのチームを引き継いだ親会社のフジタ工業の監督として4年間でリーグ、天皇杯をそれぞれ2回優勝という実績は名監督と呼ぶのに相応しい。そして監督退任後はサラリーマン稼業の傍でサッカー協会の仕事をしていた。ただ協会の仕事と言っても日本サッカーリーグの運営委員という肩書きだからいわば裏方の仕事、代表チーム強化や育成と言った現場からは離れていた。

代表の監督になるまではそういった経歴の持ち主である。
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ただ、ここまではもっぱら記録の中で知った経歴であって僕自身が目で見た歴史ではない。

僕が石井さんを覚えていたのは、地元のテレビ神奈川で時折、解説者として出演、テレビ向きの派手な形容はないが、淡々としかし理知的でわかりやすい解説者として印象に残っていたからである。

実は僕は中学の頃、サッカーをしていたのだが学校生活の途中から鉄道を追いかけるのに夢中になってしまいサッカーをするのを止めてしまったし、プレーしていた頃も日本代表がニュースになることなどほとんどなかったから正直なところ関心がなかった。

そして受験が終わり、また鉄道趣味も熱心に追いかけていた旧型国電やEF58が引退して一区切り感があった時に再び巡り合ったのがサッカー、それが昭和60年の代表チームだった。ただ昭和60年のチームは僕が出会う前にそのカラーはできていた。端的に言ってしまえば、森監督の就任は僕がサッカーに再会する前の出来事である。

その意味で、愈々、サッカーにのめり込んでいく中、初めて最初からその歩みを共にするようになったチーム、それが石井監督率いる昭和61年の代表チームだったのである。

その石井監督の代表チームであるが、与えられたタスクは2年後に開かれるソウルオリンピック予選突破であった。開催国免除のため、何度も煮え湯を飲まされた韓国が予選相手にいない。そしてその韓国を相手にあと一歩まで追い詰めた選手の主力は健在、日本人プロサッカー第一号で西ドイツで活躍していた奥寺康彦の復帰など好条件が揃っていたし、石井監督の率いた時のフジタは破壊的な攻撃サッカーで鳴らしたチームであったとの情報もあり、誰もが華やかな攻撃サッカーでの好成績を期待したものだった。

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しかし石井監督はそういった期待を全く裏切り正反対のサッカーチームを作っていった。当時の言葉で言えば「専守防衛サッカー」ひたすら守りを固め、攻撃は水沼貴史が一発のパスで相手を切り崩し、アジアの核弾頭と言われた空中戦に強い原博実のヘッドに合わす、それに破壊力のあるシュートが持ち味の手塚聡がそのこぼれ球を狙うというほぼこの組み合わせのみ、それで試合の中で数少ないチャンスを狙うというサッカーであった。

攻守にバランスの取れたチーム、あるいは華やかな攻撃力を誇るチーム、サッカーに限らず球技全般こういうチームが万人に好まれるチームであるが、それと全く反対のサッカーを志向したものだから当時のサッカージャーナリズムから総スカン、その中でも毎日新聞は比較的、好意的な態度であったが他の新聞雑誌は全て勝ち進んでもこのチームにはまるで期待を持てないという論調だったのを覚えている。森監督が作り上げた攻撃サッカーを目指す路線を放棄し時代に逆行したサッカーだ、と。

しかし僕は違った感想を抱いていた。

サッカー熱はワールドカップが終わってからますます嵩じていた。入場料が安かったことや、都内までの定期券があることから千駄ヶ谷、西が丘の両国立競技場へも行きやすかったし、もちろん地元の三ツ沢へも。登場するチームにこだわらず毎試合、サッカーを観戦に行った。サッカー雑誌記者を除けばこの2年間、最も競技場に足を運んだのは僕だったのではないだろうか、そう思うこともあるくらい通った。それこそ雨の日も雪の日も。企業応援団の存在で盛り上がる試合もあったが、6万人はいる国立に数十人しかいない試合などもあった。

それだけ数をこなしていくとある程度サッカーを見る眼も養われてくる。そしてその眼からみて、どう贔屓目に見ても攻撃サッカーを主体に代表チームを編成するのは無理だった。次のワールドカップを目指して4年という時間を与えられるのならばあるいはそれもできたかもしれないが、与えられた時間はわずか1年である。現場を任された監督は夢想してなどいられない。昭和60年のチームの中心だった木村和司は不調であったが、同じ日産チームで弟分であった水沼貴史の成長が目覚しかった。守備の要であるリベロの加藤久とヘッドが強いフォワードの原博実は健在、そこに経験豊かで攻守共に本場ドイツで歴戦をこなした奥寺康彦を加える、それが軸。というよりそれしか国際舞台で計算できる戦力がいない。その限られた人材でいかにして戦えるチームを作るか。

外野の我々は好き勝手なことを夢想し色々と注文をつける。しかし結果を出すのは監督の目指すサッカーとそれを具現化する選手である。監督、石井義信はマスコミ論調に惑わされることなく現実を見据えた適格なチームを編成している、そのように感じていた。

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ただその頃、僕が石井監督を支持していた心情はそういう評論家的な視点だけではなかった。

前任の森監督の昭和18年生まれに対して石井監督のそれは昭和14年だから、世代的には同世代といっても差し支えない歳の差でしかないが醸し出す雰囲気はまったく違った。事実、マスコミの代表チームに対する形容も前者の「森ファミリー」に対して後者は「石井一家」

森監督にはどことなく青年監督を見る暖かい雰囲気や感情があったし森監督自身にも育ちの良さから感じられる優しさ、厳しく言えばそれは甘さというべきかもしれないが、そいうものがあったのに対し、石井監督は自身の醸し出す雰囲気、そしてその決断には冷厳さ、わからない人間にはわからなくてよいと言いたげな空気を常に纏っていた。あるいはこれが志向するサッカー以上にマスコミから嫌われた一因だったかもしれない。

森監督が歳の離れた兄貴、あるいは話のわかる叔父ならば石井監督はまごうかたなき父、それもニューファミリーと言われる世代の前にあった時代の父親の雰囲気を濃厚に漂わせていた。彼らは4歳の年の差であるが大卒と高卒で4年の違い、その8年間、社会に出た年が昭和33年と41年では時代の風潮も過ごしてきた環境も全く違う。そして僕たちの両親の世代のほとんどが石井監督と同じ頃に社会に出ていた。

苦労人であるが、言葉に表すことができない不器用さ、それでも背中でわかってくれよと言いたげな哀感、現実の父親たちの考えは相入れなかったし、それに反発してはいたが、一方で貧しかった時代からとにもかくにもGDP世界第2位の地位に登りつめた戦後日本の原動力、自分たちは果たして同じことをできたのであろうかという畏怖の気持ち、僕らの世代が感じていた父親とはそんな存在だった。

石井監督の姿勢にそういった尊敬と反発が入り交じった自分の屈折した心情が反映していたこともあったのである。

by michikusajinsei | 2018-06-20 07:22 | Comments(0)