昭和62年 越美北線(その3)

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人生には上り坂と下り坂以外にもう一つ坂がある。その坂は「まさか」ゆめ、そのことを忘れずお過ごしなされ

度々、耳にするアフォリズムである。そしてこのアフォリズムを噛みしめるのはまさに、まさかの事態が起こった時、劣等生で成績下位の位置には慣れていたが、さすがに落第はまさかの事態。正直言えば、衝撃が大きすぎてその事実を知ったときどうだったか憶えていない。そして、それから直ぐに、こんどは虫垂炎が発症。薬で散らすには症状が進んでいて入院して手術する羽目になった。

手術そのものは無事成功したが、術後の管理が必要で盲腸にしては長く2週間の入院。退院してきた時はかなり体力が落ちていて2階への階段を上るのも難儀する有様だった。またこの入院期間がちょうど新学期にまたがっていたので友達の幾人かは落第のショックで僕がドロップアウトしたのではないかと思ったらしい。

まあそう思われても仕方ない状況だったがでも今から思えばこの入院で救われたところがあったかもしれない。落第という現実を日常ではなく非日常的な入院生活という中に逃げ出すことができたからである。

ただ、今、これを書いていて気がついたが、この時、親の気持ちはどうだったのだろうか。親にしてみれば学校は落第、それはそれで怒りや失望、心配、様々な気持ちが交錯しただろう。そして更に今度は入院である。盲腸の手術とはいえまさかはある。とりあえず学校のことは措いて無事であれ、そう強く願ったのだろうな、手術前の両親の面差しを思い返すとそんな感慨が浮かぶ。当事者である自分はもう現実に圧倒され翻弄されていて他人の気持ちを推し量る余裕など全くなかったが、30年が経ち、ようやくあの頃のことをこうして振り返ることができるようになった今にして、親の気持ちというものに想いを馳せる余裕もでてきたということか。

閑話休題、その「まさか」がそれこそマサカ、横浜市内のバス停にあるとは思わなかった。

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ところで、この落第、入院の時期に前後して僕はどんどんサッカーに傾斜していった。

病も癒え、気持ちも少し持ち直した頃にメキシコでW杯が開催された。マラドーナの5人抜きが演じられたアルゼンチン対イングランド、雨中の激闘、点の取り合いの末、4-3でベルギーが競り勝った旧ソ連との対決。後に史上最高の試合と称されることになるプラティニのフランスとジーコ・ソクラテスのブラジルとの延長PK。後世に語り続けられることになる試合の数々に酔いしれた。それらの試合はビデオに取ってその後何度も飽かずに見続けた。

けれども、そこに我が代表はいない。後少しで同じ空の下に、希望と期待を持って心から応援できる母国の代表チームを見ることができた、もう少しの距離だった、

残念さもあったが、見えてきた世界の背中に追いつく期待感を持った。そう期待感、その気持ちは明日を信じることでもある。落第して惨めな気持ちでいた自分の心にも、少しづつ、そしてまだ行きつ戻りつでもあったが、希望と復活を期す気持ちもサッカーの試合を見ることで生まれてきた。
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ただ、その時期、足下の日本代表チームは少しばかり揺れていた。敗れたりとはいえ我々の代表チームという誇りを持つことができたチームを率いた監督の森孝慈さんであるが、さらなる高みを目指すために続投を要請された折、監督のプロ化を要求し当時の協会にその考えが容れられないと続投を断り退任してしまった。今と異なり、昭和のスポーツ界はある種のエリート意識に支えられたアマチュアリズムが主流だったのである。

誰もがその手腕を認め、そしてさらなる躍進を期待できる指揮官がいなくなったってしまった。正直、何やっているんだという怒りというか落胆というか、どうにもならない感情を当時抱いたものである。

そして、森孝慈監督の後任として代表監督に就任したのが、石井義信、その人だったのである。

by michikusajinsei | 2018-05-30 07:20 | Comments(0)