昭和58年 広島電鉄

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先週末、流れていたTwitterのタイムラインで強く印象に残ったつぶやきがあった。

「旧い定食屋で昼飯を食べていた。その食堂にあるテレビが西城秀樹逝去を報道すると、明らかに自分より年上のおじさんが見事に全員動きを止め、画面を見つめていた。みな何かを思い出しているようだった。本当のスターだと思った」

僕もまた同じだった。エレベータの中にあるテレビを何気なく見ていてそれを知ったとき、固まってしまった。そして彼がいた時代の在りし日々のことを思い返していた。

享年63、僕が51歳。この歳になれば干支一回りはそれほどの年齢差ではない。ただ彼が過ごしてきた、あるいは演じてきた年月と自分たちの成長とにあった年月の差は実際の年齢差ではなくて原点である昭和40年代での出会いにあるように思えてならない。

彼のデビューは昭和47年、僕が幼稚園の頃であるである。「楽しい幼稚園」或いは「小学校一年生」か。うろ覚えだが、そういう幼児向けの本に郷ひろみや野口五郎などと共に掲載されていた。そして考えてみれば、それが人生でスターという存在を知った最初だった。爾来、幼児から少年そして青年期まで我々の世代が成長していく日々、彼はずっとスターだった。

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ただいつの頃からだろうか、たぶん脳梗塞に倒れる少し前、今世紀初頭くらいからその姿をテレビで見かけることは少なくなっていたし、正直言えば僕の中でも特に思い出すことはなかった。しかし流れる月日の中で、彼のことをもう一度意識する、あるいは見直す機会があった。それは数年前、テレビを見ていて脳梗塞の後遺症かもうヤングマンが踊れず、でも衣装だけは往時のまま立ち尽くして歌っている番組を偶然目にしたのである。

歌のリズムとダイナミックな振り付けとの一体感が魅力のこの曲をいわば片翼がもがれた状態でなお代表曲として歌うことを望まれる。その姿は衰えたという生易しいものではなかった。見てはいけないものを見てしまった、そういった感情が湧き上がった。しかし同時にそこまで追い込まれながら、傷ついた姿をさらすことになっても逃げることなく舞台に立つ、なにか近寄りがたい畏怖というか威厳に満ちた姿、力強さというものがそこにあった。人の姿として何か大事なものを見た、そんな風にも感じた。

あいつはできるな、やっぱりたいしたことがないや、我々のほとんどはそういった他人の評価で生きている。他人の評価で光を与えられ、また時には影も作られる。しかしその中でわずかな人々は自ら光を発して他人の評価というものを超越していく、それがスターという存在。その意味で西城秀樹はまさにスターそのものだった、特に彼のファンではない自分にしてもそう思う。

平成が30年たっても、やはり自分の周りの過半は昭和生まれである。そして自分にとって30年前の時代というのはついこの前、その意味で自分の中では昭和は遠くなった、そういう風には思えない。とはいえ、見慣れた風景、人々がいつのまにか消えていく。ただそこにあるだけ、いるだけで、その時代、その世界に戻れる存在が消えていく。改めて思えば昭和40年代、50年代、自分の幼少年時代、これは確かに遠くなった。誰もが思い出として共有し、それぞれの経験、実感として語り合えていた記憶の世界から記録として語られる歴史の世界になっていく、そんなことを強く感じさせる彼の訃報だった。

合掌

by michikusajinsei | 2018-05-23 07:00 | 広島電鉄 | Comments(2)

Commented by シグ鉄 at 2018-05-27 13:52 x
一昨日、東京から来た友人とカラオケに行きました。
当然、秀樹デスマッチとなり、私ヤングマン、友人ローラ(曲名知らず)、私ギャランドゥ、友人やめろっと言われても(曲名知らず)、と来たところで私のネタ切れでギブアップ。
まだまだ修行が足りません。後でそう言えば秀樹はepitaphを歌っていたのでは?キンクリがなんとかなるんだから行けたはずと後悔しました。
Commented by michikusajinsei at 2018-05-30 07:08
シグ鉄さま、コメントありがとうございます。

やっぱりヤングマンですね、カラオケとなると。あと歌えるわけではないですがブーツを脱いで朝食を、も印象に残ってます。

西城秀樹の歌手としての全盛期はバンドという音楽形態が主流になる直前、歌手が一人で脚光を浴びる最後の時代だったように思います。

とはいえエピタフを歌っていたのですか!それは知りませんでした。