昭和60年 筑豊(その3)

a0322896_05502093.jpg





















土地の名前が呼びさまず時代の記憶というのはあると思う。

平成も30年経った今、筑豊という名前を聞いてもそれに何がしかの時代の風景が伴うことはない。実は今、自分の仕事で三池炭鉱の炭田跡を利用して二酸化炭素を地中に封じ込めるプロジェクトが行われているのだが、実務を担当している昭和末葉から平成初頭生まれの世代にとってそれはただ仕事をしている地名以上のものはないようだ。

しかし昭和という時代に成人を迎えた年代にとって三池や筑豊、特に筑豊という語感の言葉の響きとそれが想起する土地や時代の風景はは大げさに言えば近代の熱さを呼び覚ます独特の香りがあった、そんな風に思えてならない。

a0322896_05485776.jpg















ただそうは言っても、筑豊、というより国内炭が日本のエネルギー供給の主役だった時代は自分たちの世代にとっても記憶のない時代。総資本対総労働といわれたその三井三池の労働争議があったのは昭和35年、自分たちが生まれたのは昭和40年代初頭である。そして自分たちが時代の風景というものを我が事として意識できたのは昭和50年代以降、最後まで残った貝島炭鉱の閉山が昭和51年だから筑豊炭田の閉山はその狭間の10年間、すなわち昭和40年代である。生きていた時代ではあるが自分たちにとって流れていたその時代の記憶は断片的でしかない。

その意味で筑豊の光と影は現実世界ではなく歴史的事実の中の世界であったことも確かである。
a0322896_05484347.jpg















ただ断片的な記憶、いや記憶というより空気感、肌感覚といったものだろうか。ときおりそんなものが蘇ることがある。

それは幼いとはいえ同じ時代の空気を無意識に感じていたからなのだろう。その時代の大人たちの会話、テレビ番組、ニュース、知らず知らずのうちに流れてくる時代の息吹。昭和45年の日本人の平均年齢は30歳。平成が終わろうとする今のそれが46歳であるからなんとも若い。いや熱いというべきか。学生運動にしてもモーレツと形容された働きぶりにしてもその若さ、熱さが溢れるエネルギーとなってうねっていた時代、あらゆるところに人が溢れかえって、その人の波が生み出すエネルギーのすさまじさ。そんな熱気をあの時代を思い返すと幼いなりに感じていたのである。
a0322896_05484967.jpg















鉄道趣味の世界もそうである。

当時の雑誌を見るとSLブーム、消えゆく蒸気機関車特集花盛りであるが、紙面から立ち上る印象は愛惜よりも消えゆく蒸気機関車を求め各地を旅するエネルギッシュさである。あるいは蒸気機関車のもつむきだしのエネルギーの塊への憧憬か。そのエネルギーの原動力たる石炭を生み出していたのは石狩炭田を擁する北海道夕張と、ここ北九州の筑豊炭田であり三池炭鉱である。両地方とも昭和という時代には今とは比べ物にならない存在感があった。

交友社のSL No.5に載っていたD51 No.10のストーリー「筑豊の猛烈なめくじ健在なり」、月刊時代のプレス・アイゼンバーン「レイル」創刊号に掲載された牧野俊介さんの「貝島炭鉱撮影記」またこれは読み物でないけど、おなじくアイゼンバーン刊「とれいん」初期の模型コンテストで特選に選ばれた澤田節夫さんの三井三池のジーメンス電機。また実物の鉄路でも当時は筑豊本線にも寝台特急が走っていた。新大阪発のあかつきがそれである。

現実に走っていたこの列車も含めこれらで自分が見た風景は一つとしてない。しかし、掲載されている雑誌や書籍、時刻表といったものを繰り返し読みあるいは眺めている中で、昭和の筑豊という物語が少しづつ形成されていったのだった。

by michikusajinsei | 2018-03-23 07:20 | 北九州 | Comments(0)