昭和61年 山陰本線(その8)

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大好きな季節はと問われると夏と答えるのが常であるが、今年の夏の暴力的な暑さはさすがに堪えた。幸いなことに自分の仕事は内勤なので平日の昼間出歩くことはないが、休日も約束がない限り自宅でじっとしていたのが正直なところである。

こんな気候が続くと「日本は亜熱帯になったのか」なんて言説をたまに見かけるが、白状するとその感覚にはちょっと違和感を覚える。僕は熱帯のインドネシア、シンガポール、砂漠のカタールで生活したことがあるがこの酷暑は熱帯を通り越え、ほとんど砂漠の気候に近い。いや昼間の気候を比較すると湿気が多いぶん、もしかしたら今年の日本の方が過ごしづらいかもしれない。実際、中東の来客と話していて暑さの話題を振り向けると同じような感想を漏らす人が多かった。

それに比べると熱帯の気候なんていうものは天国で、確かに昼間は暑いが湿度はそれほど高くないし、特にネシア、シンガポールのような海風の通りの良いところは夜になると気温も下がって汗をかくこともなく、ある意味、避暑に来てもおかしくないような快適さ。シンガポール生活が気に入っていたことの一つはこの気候にあったことも一因である。

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まあ、そういった個人の感覚的な印象はともかくこれだけ暑いとさて少し前の日本はどうだったのだろうかという問いかけが浮かぶ。自分が青少年期ってここまで暑くなかったことは確かだがそれを実証的に調べてみるとどうだろうか。

そしてそう思う人は自分だけではないようで、僕の勤め先では毎週月曜日の朝礼でHSSE(Health Safety Security and Environment)講話と言って安全衛生にかんする豆知識を調べて持ち回りで発表する習慣があるのだが、つい先日、同僚がそれを調べて発表してくれた。

昭和51(1976)年7月の記録では最高気温は全て34℃以下、前年の昭和50(1975)年は34℃に到達したのはわずか1日。昭和52(1977)年に至っては全て34℃未満。その傾向はその後もしばらく続く。そして日本の気温が急激に上昇し始めたのは昭和も60年を過ぎた80年代後半以降、平成に入ってからその傾向が顕著になっているとのことである。確かに自分の記憶としてもそうだ。

僕が高校生だったのは昭和57-59(1982-84)年の3年間だが、高校3年の夏がそれまでに比べて非常に暑く、冷房もなかったから教室でバケツに水を入れて気分だけでも涼しく感じるよう努力をした記憶がある。ただその時でも気温は34℃だった。30年以上前のただ1日の気温をなんで今でも覚えているかといえば、当時はそれが異常な暑さで、その暑さが受験勉強の苦しさと相まって印象に残っていたからだろう、きっと。

逆に言えば、その前までの夏といえば灼けつくような日差しという言葉はあってもそれは他の季節に比べての比喩的な表現で、昨今のような外にいるだけで本当に痛くなるような日差しとは無縁であった。それよりも夏といえばどの季節にも増して活力が湧いてくる時期で、逞しい入道雲とどこまでも続く青空に優しく見守られて青春を謳歌する、振り返るとそんな時間が若き日の僕たちが過ごしていた時代の夏の季節感であった。
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その優しかった夏の時代、僕にとってその時代の夏の光景は海と結びつく。そして僕が殊の外、気に入っていたのは海の光景は山陰本線中部。

初めてそこを訪れたのは高校2年の修学旅行。旅行自体はバスでの移動だが途中、山陰本線を並走し休憩のため止まったドライブインのすぐそばにあった駅が五十猛。

この駅の近くで見た日本海と小高い丘の織りなす美しさに魅せられ、大学に入って、また社会人になってからも何回か通った。

# by michikusajinsei | 2018-09-04 06:37 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和57年 一畑電車

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この写真は昭和57(1982)年の夏に部内合宿で訪問した山陰は松江の鉄道、一畑電車の車輌である。

前回の記事では色素添加フィルムの劣化について恨み言を書いたが、今回は、経年変化が単純な劣化ではなく、いい意味で風化され現像当初にはない味わいを持つ場合があるというお話である。

この時の撮影は未だ自分の中でフィルムの使い方をどうするか考える前で普通にネガカラーであった。フィルムカメラが衰退した今となっては説明しないとどういう風にして写真を楽しんでいたのか判らないのかもしれないので書くと、フィルム写真全盛の当時、普通の写真屋さんに写真の仕上げを頼むと絹目と光沢という選択肢があり好みに応じてそれを選ぶのだが、その名の通りコントラストが高く華やかな光沢仕上げと、色調は地味だが画面の艶が落ち着いた絹目仕上げがあった。

この二つの仕上げ方法があったが、今もインスタ映えといわれる色彩のはっきりした表現が好まれるのと同様に、フィルム時代も主流は色彩が派手な光沢仕上げだったが、僕個人はテカテカ光る画面がどうにも好きになれず普通は絹目を好んで注文していた。さてそれで、この時も旅行から帰ってすぐに現像焼き付けにだしたのだが、期待に胸を弾ませて出来上がった写真はというと、そういった仕上げ云々以前に平板な階調で朝の光と空気感に包まれた現場の雰囲気が伝わってこず落胆したのを覚えている。艶の落ちた絹目仕上げだと駅舎にしても電車にしても歳月を経た重厚感は画面の中で沈んでしまう。おまけに写真の大きさも手のひらサイズだから迫力も生まれず、がっかりしてもう一度綺麗なプリントをと言う気持ちも起きないまま、タンスの中に30年以上眠っていたのである。

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そんな気持ちを30年以上経っても覚えてはいたのだが、写真の出来云々ではなく車輌自体の珍しさと同時期のフィルムの想像以上の劣化による危機感から慌てて今回スキャンしてみたわけだが嬉しい不意打ちというのだろうか、意外な写真に出来栄えにしばらくパソコンの画面を眺めてひとり悦に入ってしまった。スキャンした一畑電車の写真、パソコンのスクリーンにこの画像が現れた時、想像していたものと実際に現れたそれとの感覚の違いに思わず唸ってしまったのである。それはなんて言うのだろう絵画的な味わいと言うべきか。青みがかった薄い膜をまとったような色彩が現れた画面を見た時、そこに写真ではなく筆使いによる描写、それも油画ではなく水彩画のような柔らかさを感じたのだ。

写真というものが言葉通り真実を写すものならば今回のスキャンデータは現場の雰囲気を正確に反映しているわけではない。というよりありえない世界が表現されていると言った方が正確だ。しかし画面を覆う青い皮膜に真昼間の抜けるような青空とは違った、柔らかな朝空のもつ微妙なグラデーションと朝露の立ち込める空気感が感じられてならないのだ。手前味噌な表現と言われたらそれまでだが、この2枚の写真を見ていると35年前の夏の雰囲気が自分の心の中にありありと蘇ってくる。

初めての大旅行、それまで見たこともなかった地方私鉄の旧型電車、交換待ちの停車時間、興奮して軽い躁状態のようなフワフワした気持ちで友人たちと電車を取り囲んで夢中でシャッターを切った、そしてその時に同時に感じた朝日の輝きを昨日のように思い出す。

物理学の延長にあるデジタル写真では生まれ得ない化学反応によるフィルム写真ゆえの作用。しかも怪我の功名のような結果であるが30数年前の感動が思わぬ形で還ってきて自分な中では静かな喜びが湧き上がってきたのだった。
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一方、車内を写したこの写真。実はこの写真を撮った時のことは上の2枚とは対照的に全く覚えていない。その頃は写真を撮ることとは自分にとって車輌の写真を撮ること、それ以外の光景を撮ることはほぼなかったのだが旧型電車の車内を記録しておこうと思ったのか珍しく車輌以外の写真を撮っていた。

夏休みでガランとした早朝の電車、本を読むのに夢中な高校生、手持ち無沙汰からかぼんやりと窓外を眺める老人。木造下見板張りのホーム待合室と民家、板張りの床に運転席と客席に仕切りのない電車。戦前の面影を濃厚に残す車内ではあるけれども高校生のもつボストンバックにはPOPEYEのロゴがプリントされている。もしかしたらその時の自分はそこにミスマッチを感じていたかもしれないが、今となってはこれも時代の風景。マジソンスクエアガーデンだとか当時はこういうロゴを派手にあしらったカバンが流行していた。

その時代的には何の特徴もない光景だが、乗客の風情も窓外の建物も今となっては還らない光景である。一両の電車や一軒の建物といったものは保存できるが、それらが共存していた当時の雰囲気・空気感といったものは、過ぎてしまうとそれを共有できたもの同士でしか感じることができない儚さをどうしても感じてしまう。

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最後の写真はそれらから数年後、学校を卒業し社会に出てから、つまり平成に入ってからの写真である。特に昔の一畑電車が好みでそれを目当てにしたわけではないが、それでも旧型電車が残っているかなあと期待して久しぶりに訪れた山陰で目にした電車は味気ない大手私鉄の払い下げ、がっかりして通りすがりにこの写真を撮っただけで終わってしまった。

ただこの車輌もよくみると旧式のイコライザー型台車を履いている。調べてみると西武鉄道の新性能電車一期生で昭和34年に製造され、車体は当時の国鉄最新型である山手線を走っていた101系に準じているが下回りは国鉄旧型国電の払い下げという過渡期の電車。

前回の記事では新規装置導入推進派と実績重視派の意識の違いみたいなことも書いたが、この電車を見ていると中間的な回答もあるもんだな、と思う。外観や車内設備は最新型でお客さんから好評を得たいし、一方で保守を担当する現場は手間と費用のかかる新型の導入にはどうしても慎重になる。その中で均衡点として当時の西武鉄道が出した回答がこの電車。それはそれで西武鉄道の社風というものが出ているのかもしれない。

特に目を惹くこともない平凡な一枚の写真にも様々な物語や時代の風景、歴史を思う楽しみが隠されている、改めてそう思う一畑電車の写真である。

# by michikusajinsei | 2018-08-20 07:08 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和58年 南部縦貫鉄道

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僕が本格的に鉄道写真を撮り始めたのは中学校3年の時、37年前の昭和56(1981)年からである。サッカー部をやめて鉄道研究部に入り、それから部活と称してあちこちに写真を撮りに行き始めた。

当時使っていたカメラはニコンF。もちろん自分でそんなカメラを買えようはずはなく父親のカメラを使わしてもらっていた。フィルムは最初の頃はフジカラーを使っていたが、やがて周囲の影響で日常的にはモノクロ、ここぞという時にポジカラーを使うようになった。

ポジカラーはベルビア登場以前であるからコダックの独壇場、エクタクロームかコダクローム。値段的には同じくらいだったが保存性の良さということが言われていたのでコダクロームを主に使っていた。ただ使っていたと言ってもポジカラーは高かったから長期休みの部内旅行の時くらいである。普段使っていたのはもっぱらモノクロフィルムである。その銘柄はイルフォードのHP400というブランドであった。

一般的には富士フィルムのネオパンSSかSSS、或いはコダックのトライXが使われていたのだが、これらのフィルムは言われるところの銀塩写真。銀で画像が構成されるのでその粒子が時として無視できない画像の荒さとなりそれが不満だった。対してこのイルフォードのフィルムはモノクロであるがカラーネガと同じで色素で画像を形成することから粒子が目立たず、そういう写真を好んでいた自分には最適なように思えた。

さらに言えば、元々、天の邪鬼気質の性格でできれば主流と違うものを使いたかったし、またこれは写真をは関係ないが当時、ブリティッシュロックに傾倒していてなんとなくアメリカンなコダックよりもイギリス系資本の会社であるイルフォードに親近感を覚えていたことも正直あった。

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この組み合わせで高校時代を過ごしたのであるが、この頃から30年以上経過しフィルムのスキャンを始めるようになって愕然としたのは高校時代に撮影したフィルムの想像以上の劣化である。

昔のカラー映画を見る時、時として色素が抜けて褪色した画像を見せられることがある。僕のフィルムに起こっているのも似たような現象で、特定の色素が抜けて色が被ったように赤味や緑色を帯びたり、あるいは現像当時はなかった現像ムラのようなシミがところどころ発生しているものまである。初めてこの現象を見た時は正直愕然とした。当時も日常の家族写真などでは普通のネガカラーを使っていたが、そのネガカラーと比べても同じ保存状態であっても明らかに劣化はこのイルフォードの方が酷く、臍を噛む思いとはこのことである。

大学に入ってからプロラボの存在を知り、そこで現像してもらうと粒状性の荒さは気にならなくなったことから入手しやすいトライXに変更したのだが、その点で銀塩写真の保存性の高さは大したもので、写真によってはセピア色に変色しているものもあるが、ほとんどのカットは撮影当時の雰囲気をそのまま残している。

実は仕事の上でも僕は新しがりやで、新規の製品や会社に注目する傾向が強く、手堅さを好む人と反目したりすることがままあるのだが、持って生まれた性格とはいえ若い頃の選択の誤りを今になって突きつけられるようで何とも言えない苦味を感じている。特に車輌的には飯田線の旧型国電や末期のEF58など高校時代の撮影には貴重なものが多くて、今になってやるせないため息をスキャンした画像を見てはついている。

この南部縦貫鉄道の写真もそう。フォトショップを相当使って修正しているが粗の全てを消すことはできずせめてあと10年早くスキャンしていればという気持ちが湧き上がるのを抑えきれない、というところである。

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さて、それはともかく僕が高校の頃、若い鉄道ファンに人気があった地方私鉄といえば西の別府鉄道とこの南部縦貫鉄道が最右翼であった。

別府鉄道はともかくとして南部縦貫の魅力は、いかにも地方私鉄らしい豊かな自然の中を当時、ここにしかないレールバスが運行しているという希少価値、また当時は東北本線に夜行の急行が八甲田、十和田と2系統走っていたので周遊券があれば特別な料金を払わずに起点の野辺地にたどり着けるため貧乏旅行でも比較的訪問しやすいという点もまた大事な点であった。

そうは言いながらも実は当時の僕の興味は本線筋の機関車に偏っていたから、この鉄道を訪問したのは夏の一度きり。高校2年の夏休みである。親友の一人がその年の冬休みに訪問して雪景色の中を走る素晴らしい情景写真をものにしているが、当時は同じ冬景色ならそれよりも北海道に行きたい気持ちが強く、またいつかいけるだろうくらいに思っていて、それが予想外にも早くに廃線になってしまって、地団駄を踏んで悔しがってもそれは後の祭り。

さらに今回のスキャンの通り一度きりの写真もまた劣化してしまっているのだから何おか言わん。それでもたった一度とはいえ訪問できたことを持って自分の心を慰謝する他はないだろう。

少なくとも、あのレールバスに乗り、いかにも地方私鉄の終点駅といった雰囲気の七戸駅を訪れることができたのだから。

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これを書いている今、日本列島、特に本州は各地で連日体温に近い35℃を超える猛暑が続いているが、昭和の時代、本州、特に東北地方を悩ませていたのは冷害、夏の時期に気温が上がらず稲の生育が遅れ充分な収穫ができないことであった。この年、昭和57年も記録を見るとそうである。

実際、この南部縦貫にいった時も暑かったという記憶はまったくない。泊まったわけではないのでただ1日の感想になってしまうが、曇天の野辺地から終点の七戸まで。今となっては記憶は途切れ途切れだが、西千曳駅の単行のレールバスに似合わない妙に長いプラットフォーム(これは後で東北本線の旧線を利用して野辺地に乗り入れているため国鉄時代の駅をそのまま使っていたとのことで納得した)、人家というものの存在感が感じられない寂寥とした風景というものが続いていたのを覚えている。営農大学校前とか盛田牧場前という駅があったと思うが、そこについても牧場らしい風景などどこにもなかった。

写真を撮っているので沿線のどこかで自分は途中下車したのだと思うが、今となってはそれももう記憶の彼方である。また当時は知らなかったが、その頃は木製の橋梁なども残っていたらしい。

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やがて到着した終点の七戸の駅には本社と車庫があった。中途半端であるがその車庫の中の光景がこれらの写真。沿線風景の記憶はおぼつかないけど、なぜかこの七戸の記憶は鮮やかである。

恐らくそれは車庫の中を自由に入っても何のお咎め受けなかったからであろう。そしてこの車庫の中には鉄道ファン的にはお宝のような車輌が休んでいた。

国鉄から払い下げられたキハ10系、別の私鉄からきたロッド式のディーゼル機関車、これらの車輌の全盛期は昭和3、40年代、戦後の鉄道黄金時代の生き証人の車輌である。これらの車輌はまだ他の鉄道でも見られたが、目の前で舐めるように見られるのはまた格別である。特にロッド式の機関車は整備の途中だったのかボンネットを開けていて潤滑油の滲みも生々しいむき出しのエンジンが現役感を強く訴えていた。この現役感を表現したくて実はコダクロームでこの修理中の車輌風景を撮影しているのだが、うまくスキャンできないで残念ながら未だデジタル化を果たせておらず、このブログにも載せることは叶わない。唯一、狭い車庫の中でへばりつくようにして撮した正面の写真が下の通りスキャンできたのみである。

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正直言えば、高校の頃の記憶はかなり断片的である。メモをとるような習慣がなかったので今となってはどのようなルートで旅行したのか覚えていない。そんな中で南部縦貫の七戸駅倉機関庫の情景が強く記憶に残っているのは、こんな世界に出会えるとは思ってもみなかったので感激したからなのだと思う。

しかし自分にとってもう一度会いたい南部縦貫はこのブログに載せた車庫以外の写真、歩いていると心細くなるような大地走るレールバスであり、西千曳駅の長いプラットホーム、また小さな駅でも貨物扱いをしていた全盛期の鉄道風景を偲ばせる七戸駅の貨車が並んだ光景なのである。

この写真の頃、昭和とはいえ、50年代も後半になると高度経済成長時代も終わり低成長の時代、次を模索する時代と言われていた。振り返ってみると、ひとつの時代とはその前の時代風景を作り変える時期でもあるように思う。その意味で今から考ると青春期の僕が見ていた世界は高度経済成長という時代によって作られた風景だ。それに対して南部縦貫鉄道はその前のプレ高度経済成長の情景を色濃く残していた。そしてその光景は昭和40年代初頭に生まれた僕の幼少年期を通じて姿を消していった世界でもある。その意味で南部縦貫鉄道が強く記憶に残っているのは単に珍しいからだけではなく、自分自身にとっての原風景に繋がり共鳴するところがあるからかもしれない。

# by michikusajinsei | 2018-08-06 07:05 | 東北 | Comments(0)

昭和62年 北陸鉄道

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さらに言えば、もう一つ思うところがあった。エリートとノンエリートの距離である。もっと正確に言えばエリートならざるものの葛藤であろうか。

石井監督の青年時代、大学進学率は10%以下、今から見ると想像の外だが、県下一番の高校に進学しても大学に行けなかった秀才たちが当たり前にいた時代である。衆に優れた能力がありながら、そしてそれが認められていながら、同じラインでスタートできない人たち。彼らの気持ちはいかばかりか。

サッカー界もまた例外ではない。協会中心部の多くは早稲田や慶応、教育大といった大学を卒業し三菱重工や古河といった名門企業に属してプレーしていた人たちが引退して指導者となっていた。昭和的なアマチュアリズムとは一面、恵まれた一部の人間で成り立っていた世界である。対して上に書いた石井監督の経歴は正に叩き上げ、高卒で新興チーム出身、決して主流のそれではない。しかも切り札と言われた人物の後任である。重圧や孤独感の深さを人一倍感じていたのではないだろうか。

しかし、そういった自身を取り巻く環境の中でも、世論に迎合することも、かといって徒らに反発することもなく淡々としかも勝つために何をすべきかを考えて着実にチームを作り上げていった。

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選ばれた選手も同様だった。

代表に選ばれる選手には2通りの人材がいる。一つは誰が監督になっても選ばれる選手、実力が監督の手腕を越えたと評すべきか、彼らの能力を軸にしてチームが組み立てられる力量の持ち主たちである。

もう一つは、監督が自らの戦術に必要不可欠だと考えて招集する人材、オールスター的な感覚からは必ずしも当代随一という能力ではないが、その監督の構想を具現する特徴を持った選手たちである。

石井監督のサッカーでは後者に味わい深い選手たちが何人かいた。とりわけ僕が印象深かったのはディフェンダーの金子久と中本邦治、フォワードの手塚聡である。彼らは代表選手としてはほぼ石井監督の時代のみ選ばれた選手である。いかつい風貌が特徴の金子は試合中、正に鬼神のような面相でヘッドでボールをクリアしまくっていた。接近戦でのマークがうまく、出身チームでは後の代表監督となる岡田武史、代表では加藤久というディフェンスリーダーとして傑出した指導力の持ち主に指揮されると力を発揮するタイプであった。

中本邦治は非凡な平凡さと形容すべきか、特になにか強烈な個性や得意技があったわけではない。しかしディフェンダーに求められるまず第一の能力は、相手チームのプレーのスピードを落とすことでありマークした相手の自由度を制約することである。その点において中本の安定したマンマークは特にフォワードの選手のスピードを落とさせることに長けていた。

しかし何と言っても石井一家を象徴するのは手塚聡である。厳密に言えば彼はその前から代表自体には呼ばれていた。実際ツボにはまった時の爆発的なシュート力は当時のサーカーリーグで比肩する選手はいなかったが柔軟さに欠けるため森監督の頃は代表に呼ばれても控えに甘んじていていることが多かった。しかしそのプレースタイルは石井監督のサッカーには非常に相性が良かった。攻撃において柔の水沼を補完する直線的で力強い突破力も魅力的だったが何と言っても彼のプレーが胸を打ったのは泥臭いまでに相手ボールを追いかける姿勢である。また時には中盤より下がってボールをクリアすることさえあった。そういったフォワードらしからぬプレーは石井サッカー批判の格好の標的になったが、僕は戦術を越えて彼のその姿、ひたむきさ、あるいは選ばれたが故にその責任を全うしようとする姿勢に心を打たれた。

2次予選、国立のシンガポール戦だったか、右サイドを突破して強烈なシュートをたたき込んだ得点。得点自身も豪快で強烈な印象だったが、なによりも感動したのは帰宅してみたテレビの映像。試合が終わってロッカールームに戻る通路で号泣している彼の姿だった。
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こう言っては何だが、2次予選のシンガポール戦は実力差もあったし、試合自体に特別な雰囲気や性格があったわけではなく普通に実力を発揮して勝てばいいだけである。勝ったからといってオリンピックに出られる段階ではないし難敵相手にようやく勝ったというわけでもない。

ほとんどの選手にとっては勝つことは嬉しいことだったろうし、負けなくてホッとしたという気持ちはあったろうが勝って感激したというレベルの感情が湧き上がる試合ではなかったはずだ。それに手塚自身、デビューしたてという歳でもなく、もう30近い年齢、ベテランと言ってもおかしくないキャリアの頃である。

にもかかわらず、あたりはばからず号泣。

彼がどういう人生を送り、そしてこのグラウンドに立っていたか、それは詳しくは知らない。日本代表に継続的に選ばれているくらいだから若い頃から一目を置かれていたことは確か。ただ選ばれてはいたが華やかに脚光をあびるほど活躍していたわけではなかった。

代表の候補になり合宿に呼ばれる、そしてメンバーに選ばれる時もあれば呼ばれない時もまたある。そして呼ばれてもスターティングメンバーとして出場することは滅多になくベンチウォーマー。何回かに一回、後半に少し出場して終わり。あけすけに言えば戦力というより一軍の練習相手として呼ばれているのに近い。

代表に選ばれ続ける能力と実績がある、しかし選ばれてもそれを発揮する機会がもらえない。そんな中途半端な状況に対して屈託がないはずがないだろう。

いったい、何が足らないのか。能力なのかチーム戦術への適応性なのか。確かにエースはいる。しかしエースだけではチームは成り立たない。エースの代わりにはならなくても自分の役割は果たせるはずだ、少なくともその機会を与えてもらえないか。

そんな葛藤を抱えていた中で巡ってきた機会、そこで出した一瞬の答え、この時の手塚聡のゴールと彼の試合後の涙はまさに自分自身の存在価値を発現できた者のみが味わうことができた喜びそのものだったのではないか、そんな風に思えてならなかった。

いったい自分は何になれるんだ、あるいは何かを実現できるのか、誰か自分を見てくれる人がいるのか、何よりもどこに自分の居場所があるのか。そんな想いに迷いながらプレーを続け、ついにそれを見つけた瞬間、それが彼にとってこのゴールだったのではないだろうか。

今から見れば自分の未熟さや努力不足を脇に置いていておこがましい限りだが、そうした彼のひたむきさに自分自身を投影して強い共感を覚えていた。
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とはいえ今書いてきた選手の活躍は実はそれほど注目されておらず、相変わらずチーム自身は批判に包まれながら、それでも勝ち進んでいった。

ネパール、タイ、中共との組み合わせとなった最終予選。ネパールは圏外だったが他の3国といえば、戦力的には日中はほぼ互角。タイがやや落ちる。とはいえどのチームでもホームでは勝ち点を稼げる可能性が高いと考えていた。とういうことはアウェーの戦いが勝利を決める。もちろん勝てればいいが引き分けに持ち込めれば勝算が立つ。これが3チーム共通の置かれた状況。そして必ず何処かのチームが取りこぼす、それが致命傷になるのではないか。

それがこの予選を俯瞰した戦力事情である。

日本の初戦はバンコクのタイ戦。その4年前。自分がサッカーに再び関心を持つ直前、ロスアンゼルスオリンピック予選の初戦でこのタイを甘く見て5-2と予想外の敗北。これで歯車が狂って全敗で予選敗退の歴史がある。

結果は慎重に戦っての無得点引き分け。テレビ中継があったわけではないのでこの試合自体の出来はよくわからないが、まずまずの出足で次のネパール戦はホームアウエーとも完勝、ホームのタイ戦は取りこぼすことなくきっちり勝って最終戦の日中対決となった。この時点で中共はタイとネパールに全勝。ホーム&アウェーで1勝1敗ならば勝ち点差で中共が勝ち抜けという状況で日本代表はまずアウェーで戦わなくてはならなかった。

そんな大一番でも相変わらずテレビ中継はないのだから、当時の日本代表の注目度は好事家レベルの関心にとどまると判断されていたのであろう。そして自分自身、正直、勝つことは期待していなかった。なんとか引き分けに持ち込めないか、ホームに持ち込めればあるいは勝機が得られるかもしれない。なんとか負けないでくれ、歯噛みと焦燥感が混じりそんな祈るような気持ちでその晩を送っていた。時計を見ながら結果が入る頃、テレビのチャンネルを回してはニュースのある局で結果の報道を待った。
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確かNHKだった。1-0の勝利を伝えるアナウンサー。映像はない。耳を疑った。本当に勝ったのか。バンコクのアウエーでも得点できなかったチームが堅守の中共を破ったのか。

翌朝の新聞でこんどは写真入りの報道。間違いなかった。石井一家はアウェー広州でその練り上げたチーム力を遺憾なく発揮し勝利を収めたのだった。後にこの時の代表チームを追ったノンフィクションを読んだ時に知ったが、試合後の慰労会で中心選手の奥寺はこう言ったそうである「攻めさせてやってんだ」

横綱相撲の言葉である。

あとはホームの東京を残すのみ、引き分けで予選突破。俄然、有利な立場になった日本代表の最終戦。大きな期待を持って応援に向かった。雨が降ってたが特にそれは気にならなかった。ようやく夢が実現する歓喜を目にすることができる、そんな気持ちでいっぱいだった。そして開始早々に右サイドの水沼からフリーの手塚にパスがつながり強烈なシュート、GKに止められたが力強い進発にさらに期待が膨らんだ。

結果から言うとチャンスはこの一回のみ。初戦で得点を決めた原博実が完璧に抑えられ守備陣がクリアーしてもそのボールはフォワードにつながらない。セカンドボールを悉皆、中共に拾われなんども揺さぶられ続け、とうとう持ち堪えられずに前半終了間際に失点してしまう。自分の目の前の出来事だった。中共のフォワードがフリーになった瞬間「あー」とおもわず声を上げてしまった。そして身体を突っ張らせた。その直後、ゴールが決まった。

守備型のチームは先取点を取られると弱い。後半に入っても目立った反撃ができず得点の匂いが全くしないまま時間が過ぎていく。2年前の日韓戦の時は追いつけるのではという雰囲気が最後まで持続し観衆の熱気も衰えなかったが、この試合は後半途中から諦めムードが漂いだしていた。やがて中共に追加点がはいり万事休す。2-0での敗戦。

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覚悟していたとはいえ敗戦という事実に帰宅する足取りは重かったんだと思う。30年前の話であるのではっきりした記憶はない。どうやって気持ちを入れ替えるべきか、そんなことをぼんやりと考えていた気がする。ただ覚えているのは電車での帰途。総武線で代々木まで行き山手線に乗り換えた時だったか、そこでは淡々とした夜の日常が広がっていたことである。代々木駅のホームにも山手線の車内にも熱狂や悲嘆といった高陽した感情はなく人々は静かに移動し散っていた。

自分はこの2年間、夢を追いかけていた。何かを成し遂げるという夢を日本代表というかたちのそれに託して追いかけていた。最初は大学に入って生活や環境が変わったことの浮遊感を埋めるような気持ちだった。自分が知らない世界を見てみたいそんな気持ちから日本代表を追いかけ始めた。しかし途中で落第という現実がそれを少しばかり変えることになった。挫折感である。それから立ち直るために何かが必要だった。

それは何だったのだろう。やはり夢か。いや夢という抽象的なものではなく具体的に何かを成し遂げるということ、それに関わることだった、陳腐な言い方だがそれによって世間の前に立てる勇気だった、その時は漠然とした思いだったがそんなものではなかったか、と今にして思う。

そしてこの時の石井義信の代表チームはそういった自分の心境と共鳴するものがあった。広州での勝利以外に拍手されることはほぼ無かった。選手も個々の才能ということだけで言えば、第一人者たちが選ばれたと言えないところがあったのも事実である。しかしそれでもここまで来ることができた。それは批判を受け続けても腐ることなく、そして努力を惜しみなく費やした個々の選手とそれをチーム力に昇華させた石井監督の手腕である。

負けたことは悔しかったが挫折感とは違う新たな勇気というか今度は自分が何かしなければ、という気持ちが湧いてきた。そして帰宅する電車の中で目にした淡々とした日常風景に、批判や評価は好悪どちらであっても所詮はうたかた、大事ではあるがそれが全てではないと感じていた。そう僕はこのチームと一緒に夢を見、その夢は散ってしまったけれども別の地平をようやく見つけることができた。同時に日本代表との旅も終わった。

このブログ記事を書いている間にロシアワールドカップが始まり、直前の状況からは思いも寄らない日本代表の活躍は世間を刮目させた。30年前、アジアの壁が破れずに呻吟していたことを比べれば信じられない時代である。むろん僕も試合結果に一喜一憂していたし楽しませてもらった。

しかしやはり僕にとっての日本代表はこの2年間、森、石井の2人の監督時代に尽きる、特に石井監督の時代に。この2年間、大げさに言えば自分の人生を賭けて日本代表を追いかけていた。日本代表の消長が自分自身の存在証明であるかのような気持ち、祈るような勝利への想い。後にも先にもそんな気持ちでひとつのチームを追い変えたのはこの2年間だけである。もちろんこの後もサッカーへの関心は持続しているが、この時のように自分自身の精神状態やとりまく状況と重ね合わせて見るようなことは無い。それくらいこの時の代表チームへの自分の想いは深く熱かった。

そしてこの試合結果は僕にとってはひとつの終わりであったが日本サッカー全体で言えば、これが始まりだった。この2つの敗北がプロリーグの発足に直接つながり、多少の浮き沈みはあれど今日の隆盛を迎える端緒だったからである。30年という月日、当然ながら今の選手たちに森監督や石井監督から直接薫陶を得た人間はいない。ただ彼らの実績と苦い経験があったからこそ、それを克服するものが何かを求める努力が続き、優勝候補と互角の試合を演じられるこの日を迎えられたである。

試合会場で見かけたことはあったが、直接話したわけではないこの二人の監督は自分自身にとって人生の進む道にある光を与えてくれた恩人である。森監督は一足先に数年前に旅立ち、そして石井監督もまたこの世を去った。故人の霊に哀悼をささげると同時に、青春期の彷徨の中、道が見つからずに苦しむ中で「生きてゆくとはこういうことだよ」と日本代表というチームを率いることで示してくれた彼らに、届くわけではないが感謝の声を伝えたい気持ちでいっぱいである。

# by michikusajinsei | 2018-07-14 08:46 | 北陸鉄道 | Comments(2)

昭和61年 氷見線

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前任の森監督は高校時代からスター選手。早稲田大学から三菱重工、そして代表でも銅メダルをとったメキシコ五輪に出場している。指導者としても早い頃からいずれは代表の監督にと嘱望された存在だった。生まれも昭和18年だから当時は30代後半から40代前半、年代的には選手にとって兄貴分のような存在、まだ選手としてもプレーできるような若々しさを持った青年監督だった。

一方の石井義信さんは、昭和14年の生まれで高卒で東洋工業に入社だから昭和33年か。特にサッカーの才能を見込まれてというのではなく一般試験で入社。その入社した東洋工業は草創期の日本サッカーリーグの盟主でリーグ創設から3連覇を成し遂げたチームである。高卒で入社しサッカー部に入部してチームの主力になり、また記録によれば昭和37年に一度だけ日本代表に呼ばれているので選手としての実績も残してはいるがむしろ花開いたのは監督としてである。

請われて新しくサッカーチームを結成した藤和不動産に選手兼コーチとして転職、県リーグの4部から4年で最高峰の日本サッカーリーグ1部に昇格するのに貢献。そしてそのチームを引き継いだ親会社のフジタ工業の監督として4年間でリーグ、天皇杯をそれぞれ2回優勝という実績は名監督と呼ぶのに相応しい。そして監督退任後はサラリーマン家業の傍でサッカー協会の仕事をしていた。ただ協会の仕事と言っても日本サッカーリーグの運営委員という肩書きだからいわば裏方の仕事、代表チーム強化や育成と言った現場からは離れていた。

代表の監督になるまではそういった経歴の持ち主である。
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ただ、ここまではもっぱら記録の中で知った経歴であって僕自身が目で見た歴史ではない。

僕が石井さんを覚えていたのは、地元のテレビ神奈川で時折、解説者として出演、テレビ向きの派手な形容はないが、淡々としかし理知的でわかりやすい解説者として印象に残っていたからである。

実は僕は中学の頃、サッカーをしていたのだが学校生活の途中から鉄道を追いかけるのに夢中になってしまいサッカーをするのを止めてしまったし、プレーしていた頃も日本代表がニュースになることなどほとんどなかったから正直なところ関心がなかった。

そして受験が終わり、また鉄道趣味も熱心に追いかけていた旧型国電やEF58が引退して一区切り感があった時に再び巡り合ったのがサッカー、それが昭和60年の代表チームだった。ただ昭和60年のチームは僕が出会う前にそのカラーはできていた。端的に言ってしまえば、森監督の就任は僕がサッカーに再会する前の出来事である。

その意味で、愈々、サッカーにのめり込んでいく中、初めて最初からその歩みを共にするようになったチーム、それが石井監督率いる昭和61年の代表チームだったのである。

その石井監督の代表チームであるが、与えられたタスクは2年後に開かれるソウルオリンピック予選突破であった。開催国免除のため、何度も煮え湯を飲まされた韓国が予選相手にいない。そしてその韓国を相手にあと一歩まで追い詰めた選手の主力は健在、日本人プロサッカー第一号で西ドイツで活躍していた奥寺康彦の復帰など好条件が揃っていたし、石井監督の率いた時のフジタは破壊的な攻撃サッカーで鳴らしたチームであったとの情報もあり、誰もが華やかな攻撃サッカーでの好成績を期待したものだった。

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しかし石井監督はそういった期待を全く裏切り正反対のサッカーチームを作っていった。当時の言葉で言えば「専守防衛サッカー」ひたすら守りを固め、攻撃は水沼貴史が一発のパスで相手を切り崩し、アジアの核弾頭と言われた空中戦に強い原博実のヘドに合わす、それに破壊力のあるシュートが持ち味の手塚聡がそのこぼれ球を狙うというほぼこの組み合わせのみ、それで試合の中で数少ないチャンスを狙うというサッカーであった。

攻守にバランスの取れたチーム、あるいは華やかな攻撃力を誇るチーム、サッカーに限らず球技全般こういうチームが万人に好まれるチームであるが、それと全く反対のサッカーを志向したものだから当時のサッカージャーナリズムから総スカン、その中でも毎日新聞は比較的、好意的な態度であったが他の新聞雑誌は全て勝ち進んでもこのチームにはまるで期待を持てないという論調だったのを覚えている。森監督が作り上げた攻撃サッカーを目指す路線を放棄し時代に逆行したサッカーだ、と。

しかし僕は違った感想を抱いていた。

サッカー熱はワールドカップが終わってからますます嵩じていた。入場料が安かったことや、都内までの定期券があることから千駄ヶ谷、西が丘の両国立競技場へも行きやすかし、もちろん地元の三ツ沢へも。登場するチームにこだわらず毎試合、サッカーを観戦に行った。サッカー雑誌記者を除けばこの2年間、最も競技場に足を運んだのは僕だったのではないだろうか、そう思うこともあるくらい通った。それこそ雨の日も雪の日も。企業応援団の存在で盛り上がる試合もあったが、6万人はいる国立に数十人しかいない試合などもあった。

それだけ数をこなしていくとある程度サッカーを見る眼も養われてくる。そしてその眼からみて、どう贔屓目に見ても攻撃サッカーを主体に代表チームを編成するのは無理だった。次のワールドカップを目指して4年という時間を与えられるのならばあるいはそれもでいたかもしれないが、与えられた時間はわずか1年である。現場を任された監督は夢想してなどいられない。昭和60年のチームの中心だった木村和司は不調であったが、同じ日産チームで弟分であった水沼貴史の成長が目覚しかった。守備の要であるリベロの加藤久とヘッドが強いフォワードの原博実は健在、そこに経験豊かで攻守共に本場ドイツで歴戦をこなした奥寺康彦を加える、それが軸。というよりそれしか国際舞台で計算できる戦力がいない。その限られた人材でいかにして戦えるチームを作るか。

外野の我々は好き勝手なことを夢想し色々と注文をつける。しかし結果を出すのは監督の目指すサッカーとそれを具現化する選手である。監督、石井義信はマスコミ論調に惑わされることなく現実を見据えた適格なチームを編成している、そのように感じていた。

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ただその頃、僕が石井監督を支持していた心情はそういう評論家的な視点だけではなかった。

前任の森監督の昭和18年生まれに対して石井監督のそれは昭和14年だから、世代的には同世代といっても差し支えない歳の差でしかないが醸し出す雰囲気はまったく違った。事実、マスコミの代表チームに対する形容も前者の「森ファミリー」に対して後者は「石井一家」

森監督にはどこなく青年監督を見る暖かい雰囲気や感情があったし森監督自身にも育ちの良さから感じられる優しさ、厳しく言えばそれは甘さというべきかもしれない、がそいうものがあったのに対し、石井監督は自身の醸し出す雰囲気、そしてその決断には冷厳さ、わからない人間にはわからなくてよいと言いたげな空気が常に纏っていた。あるいはこれが志向するサッカー以上にマスコミから嫌われた一因だったかもしれない。

森監督が歳の離れた兄貴、あるいは話のわかる叔父ならば石井監督はまごうかたなき父、それもニューファミリーと言われる世代の前にあった世代の父親の雰囲気を濃厚に漂わせていた。

苦労人であるが、言葉に表すことができない不器用さ、それでも背中でわかってくれよと言いたげな哀感、現実の父親たちの考えは相入れなかったし、それに反発してはいたが、一方で貧しかった時代からとにもかくにもGDP世界第2位の地位に登りつめた戦後日本の原動力、自分たちは果たして同じことをできたのであろうかという畏怖の気持ち、僕らの世代が感じていた父親とはそんな存在だった。

石井監督の姿勢にそういった尊敬と反発が入り交じった自分の屈折した心情が反映していたこともあったのである。

# by michikusajinsei | 2018-06-20 07:22 | Comments(0)