平成30年 横浜 大番 & 龍興楼

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タンメンです。

ずーっと知らなかったんですが、タンメンって関東発祥の麺類で他の地域ではほとんどないんだそうですね。いやあ、半世紀生きてきても知らない身近なことってありますな。

シンガポールでは麺類食ってばっかしだったし、その昔の学生時代は北海道駅ソバ全制覇なんてことやってます(単に駅ソバを売っている駅が少ないからできただけです)が、不思議と地元では麺類をあまり食べません。特にラーメンはほとんど食べないんです。なんででしょうね。

あ、いや理由は自分の中であるのですが、なんでラーメンを食べないかというより、たまに街の中華屋さんに入って食べる時となると若い頃はチャーハン大盛り、そして30過ぎてからはもっぱら、このタンメンばっかり注文しています。

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これも不思議っちゃ不思議ですね。それまでほとんど食べたことがないからソウルフードなんてもんではないし、積極的にタンメン食べようってお店に入ることはほとんどありません。でも気がつけば注文しているのはたいていタンメン。シンガポールから帰省した時に食べにいったりしていました。見た目、野菜炒めがラーメンに乗っかっただけの料理になんでこうも郷愁を感じていたのでしょうか。

自分で料理を作っていてたまに思うのですが、料理のコツとは水分の調節じゃないか、と。素材が持つエキスを僕たちはどのように味わっているのか、その答えは水を通じてその素材を味わっている、そんな風に感じます。素材自体の持つエキス、それは旨味でもありときにはエグミでもありますがその素材自体に含まれている水分にそれらが溶け込んで我々に伝わる、調理技術とは素材の水分を加水、脱水、どう制御しているのか、旨味を残し、あるいは増し、エグミを消すとはそういうことではないでしょうか。

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さてタンメン、言うまでもなくタンメンの美味しさは炒めた野菜のエキスが溶け込んだスープの旨さにあります。言い換えれば野菜の水分が染み出してスープの出汁と交じわる渾然一体となった旨さ。しからば野菜に宿る水分はどこに源があるのか。それはその土地に含まれた水分が野菜に吸い出されているわけです。野菜の水分を通じて私たちは、その野菜が生まれた大地を味わっている、そんなふうに言えるように思うのです。

水が合う、そんな言葉があります。

同じ野菜でも産地が違えば微妙な味わいの違いがあります。果物なんかもそうですよね。同じ温州みかんでも地域による酸味と甘みの風味の違いははっきりしています。

冷凍食品はともかく僕たちが街の食堂でたべるタンメンは普通、露地物の野菜を使っていると思います。またスープの水も水道水、麺だって地元の製麺所で作られたものでしょう、普通は。そう考えると僕たちはまさにタンメンを通じて飲み食べ馴染んでいる水を味わっている、そんなふうに言えないでしょうか。

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僕のような関東人がタンメンに郷愁を感じるのは長年生活してきて肌に馴染んだ水を味わっているから、そして逆に安くて美味しくてそして腹持ちの良い、こんな庶民の味方のタンメンの味わいが全国区にならないのは、それがあまりにも関東の風土に根ざした味だからではないか、シンガポールから帰国して2年が過ぎようやくまた生まれたこの街の生活に慣れてきて、しみじみとタンメンを食べながら、そんな風に思うのです。

書いていた原稿を飛ばしてしまったり、多忙による疲れなどが重なり少しサボってしまいましたが、またこのブログでの駄文を書いていきたいと思います。

# by michikusajinsei | 2018-11-13 07:15 | 横浜 | Comments(0)

平成4年 山陰本線(その1)

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「平成最後の夏」

虚をつかれたが、言われてみれば確かに今年の夏はそうだった。一つの歴史的な空間があらかじめ予定されて終わる瞬間。考えてみればそれは日本のみならず世界的にも初めての経験なのかもしれない。

なぜなら区切りはいつも唐突に起こる。静かに流れる大河が、急激に速度を増し、一気にその瞬間が訪れる。

昭和の終わりも、人の寿命に起因するものだからいつかはという想いは誰にもあったが実際に昭和天皇が病に倒れた瞬間は、その直前まで公務についておられたから不意をつかれた感があったし、冷戦という時代の終わりもベルリンの壁が一箇所崩された瞬間、奔流のようにそれまで堅固にそびえているように思われた壁が一斉に壊され、東西の人々が手を取り合い合流するのを目にした。

しかし時代の変化、それ自体はそんなに急には見えてこない。昭和から平成への改元は1日にしてなされたが、社会の営みはそれ以前と変わらずに淡々と過ぎていった。
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特に昭和という時代は、戦前戦後という二つの歴史空間をまたいだ60余年という年月の長さに相応してまたその転換はゆっくりとしていた。当時を生きてきた感覚でいえば、昭和64年1月7日に日は没したがその夕映えの輝きはしばらく続き、その中で我々の社会生活は営まれていた。

しかし振り返ってみると、時代の転換点はやはりあった。昭和という時代、その残照はいつ消えたか。

実感としていえば、それは平成7(1995)年である。
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この平成7年と言う年、阪神淡路大震災、サリンテロ、警察庁長官狙撃事件と事件が相次ぎ、1ドル80円を切る円高と止まらない資産価格のため進まない不良債権処理が相まって誰の目にも経済不況が明らかになり、就職氷河期という言葉が囁かれていた。そして前代から言えば戦後50年という節目の年でもあった。

実はこの年、僕はカタールに赴任していてその頃の日本人が、あるいは日本社会が味わった不安感、そう言うと言い過ぎかもしれないが、いったいこの国はどこに流れていくのだろうか、という不安定な気持ちを完全には共有していない。大震災の時はカタール、サリンテロの時は帰国便に乗るための乗り継ぎで滞在していた香港でその報せを聞いた。ホテルで朝、何気なくつけたテレビでフランス語が流れていた。何もわからなかったが女性アナウンサーがただならない様子でニュースを伝えていた。そして何回も同じ言葉を繰り返していた。それは数少ない僕の知るフランス語の単語「プワゾン」毒という意味の言葉である。そして東京の風景が映し出されていた。

慌てて、少しは内容の把握できる英語のチャンネルに切り替えてみると、化学テロが行われたらしいということが伝えられていたが混乱状態でそれ以上のことはわからず、その翌日、成田からの帰路のバスの中で「ここで何か起こったらどうしよう」と考えて、とても心細かったのを憶えている。そして直後に起こった国松長官狙撃事件、その報が伝えられた時、父が「なにが起こっているんだ。日本は壊れるのか」と思わず叫んでいた。

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確かに昭和40年代も様々な事件が起こった。当時の自分は幼かったからその衝撃をわかっていたわけではない。それでも三菱重工ビル爆破テロでガラスが刺さり血まみれになった人の写真を新聞で見た時は衝撃を受けたし、浅間山荘事件もその時、それとは知らなかったが後から思えば祖母と一緒にテレビで見ていた。

しかし昭和という時代は混乱が起こってもそれを受け止める柱石とも言うべき人々が大勢いた。というより昭和戦後という時代は前線と銃後の違いはあれど戦中戦後の死線をくぐり抜けてきた人々が担っていた時代である。土壇場での性根の座り方というものであろうか。その重さが戦後世代に批判されていたわけだが一方で「戦争に比べればたいしたことがない、動じるな」そんな声が伝わってくるような頼もしさがあったのも事実である。

しかし歳月は人を待たない。平成最初の7年間でそれを知る世代の人は次々と引退していった。自分の身の回りでも僕が会社に入った頃、役員の半分は旧制高校、あるいは軍学校出身の方だったがその頃までにはその世代の方は全員引退していたし、昭和一桁の父もまた第二の職場へ移っていた。
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そして後に「失われた20年」と呼ばれる事になる停滞-それ自身は少し前から始まっていたが-を肌身に実感し始めたのもこの頃だった。


# by michikusajinsei | 2018-10-16 07:21 | 山陰本線 | Comments(0)

平成30年 青島及び温州

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基本的には昭和末期の写真で作っているこのブログだが今回は趣向を変えて最近の話である。

先日、出張の機会があり2年ぶりに訪れた中国。この5年間で3回目、その前は約20年前の平成11(1999)年だから、その頃とはもちろん同じ国とは思えない変貌を見せているが、直近の3回でも行くたびに新たな表情を見せてくれる。

このプロジェクションマッピングは青島で出会った風景。夕食を食べていたら突然、ビルが光りだしみるみる鮮やかな彩色が現れた。しばし呆然となり声を失い見とれてしまった。

聞いて話では、これは特別なイベントで行われるのではなく、またあちこちの街でも似たようなことが行われているらしい。事実、規模はともかく、別の街でも似たような光景は見られた。

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さらに言えば左側の2棟は商業ビルではなくマンションだそうで、こんなマッピングを四六時中やられたら落ち着いて生活できないと思うが、幸か不幸か、見る限り住んでいるのは1割以下、逆に言えばだからできるのだろう。

それにしてもバブル的なと言えば言えるが、バブル景気の頃の日本を象徴するのがディスコのミラーボールであるとするならばなんともスケールの大きい演出、それに対して評論家めいたことは言おうと思えば言えるけれど、スケールの大きさだけは本当に感心してしまう。
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感心したと言えば、この新幹線もそう。確かに川重やアルストム、シーメンスといった会社からの輸入技術ではあるが逆に言えば設計思想の異なるシステムを使いこなして広範囲に路線を張り巡らす運用能力は想像以上に高いんじゃないだろうか。

ちなみに速度は車内の表示を見ていると最高速度307kmまで出していたが我が新幹線に勝るとも劣らない揺れの少なさ。同行者は鉄道ファンでもなんでもないが技術畑の人、これだけ安定して列車を走らせる技術はすごいねえと何度も感心して話ていた。同感である。ただ注文をつけるとすれば椅子の造作がやや雑で、日本風に言えばグリーン車に乗っていたが、その面では快適性が損なわれているというか長時間乗った下車後に身体に強張りがあったのは正直なところである。

そういった新幹線の技術論的な感想はともかくとして一番楽しかったのは車窓風景、景色というより、鉄道それ自体にまだ客車列車や、有蓋車、無蓋車など多様な貨物列車が数多く走っているのを見ることができたことだった。馴染んだ車輌がいるわけではないが、大きな駅のプラットフォームに客車列車が数多く並んでいる風景それ自体、かつての上野駅地平フォームをみるようで自分にとってたまらなく懐かしい風景である。その風景はそのまま僕の十代の風景、高度経済成長末期の日本の風景そのものであるからだ。

その時代、バブルと呼ばれた時代を挟んで30余年が経過した現在の日本、その30年の間に起こった様々な出来事ー平成への改元、二つの大きな地震、大袈裟かもしれないが日本が溶けるのではないかと底知れぬ不安におののいたオウム真理教テロの一週間、大手金融機関が次々と行き詰まり遂には海外銀行から決済停止を求められた金融危機、そして失われた20年と呼ばれることになる長い低迷。

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上野駅の地平フォームを見ていたその時も、ここで見ている風景はいつか変わるだろうとは思っていた。そして現実に変わってきたし、今もこの大陸のスピード感にはかなわないにしても着実に変わっている。

しかし、そのような可視化された風景以上に、こういった災厄の果てに社会の背後にあった時代の空気感はすっかり変わってしまった。

思えばバブルの時代の空気感、それはギラギラとした欲望を露骨に出すことが肯定された時代だった。その時の社会の雰囲気を僕は真夏の時代と形容したが、あの頃に感じていたエネルギーは昼よりも夜の闇の中で輝く人工的な電飾のギラつきの方がより時代に寄り添ういているような気がする。そんな時代の風景、精神に居心地の悪さを感じながらも、やはり心のどこかではその高揚感と欲望をてらいもなく素直に満たそうとする力強さに憧れていたのもまた事実であった。そしてその頃の風景や人々を覆っていた時代の精神は今の支那大陸の風景と大きく重なっている。

そのバブルと言われた時代から30余年、日本社会からあの時のむき出しの欲望はあとかたもなくなった。

自動車一つとっても、平成元年に700万台を超えていた国内需要がいまや500万台。BMWが六本木カローラなどと呼ばれた時代に対して当時1割もなかった軽自動車の販売台数がいまや市場全体の1/3を越す状況である。対して今の中国の国内生産は年間2,900万台、工場の平社員がベンツやポルシェで通勤している世界である。

個人として振り返っても庇護された子供時代と違い自立と責任を求められる社会人としてその変化に翻弄されながら生きてきて、自分自身も求めてきたもの、求めたいものもまた変わってきている。

そういった日本社会と自分自身の軌跡、心境を思うにつけ、30年後に今の日中、それぞれの十代はどのような感傷を抱いて今の時代を回想するのだろうか。

# by michikusajinsei | 2018-09-27 07:22 | 支那 | Comments(0)

昭和61年 山陰本線(その8)

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大好きな季節はと問われると夏と答えるのが常であるが、今年の夏の暴力的な暑さはさすがに堪えた。幸いなことに自分の仕事は内勤なので平日の昼間出歩くことはないが、休日も約束がない限り自宅でじっとしていたのが正直なところである。

こんな気候が続くと「日本は亜熱帯になったのか」なんて言説をたまに見かけるが、白状するとその感覚にはちょっと違和感を覚える。僕は熱帯のインドネシア、シンガポール、砂漠のカタールで生活したことがあるがこの酷暑は熱帯を通り越え、ほとんど砂漠の気候に近い。いや昼間の気候を比較すると湿気が多いぶん、もしかしたら今年の日本の方が過ごしづらいかもしれない。実際、中東の来客と話していて暑さの話題を振り向けると同じような感想を漏らす人が多かった。

それに比べると熱帯の気候なんていうものは天国で、確かに昼間は暑いが湿度はそれほど高くないし、特にネシア、シンガポールのような海風の通りの良いところは夜になると気温も下がって汗をかくこともなく、ある意味、避暑に来てもおかしくないような快適さ。シンガポール生活が気に入っていたことの一つはこの気候にあったことも一因である。

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まあ、そういった個人の感覚的な印象はともかくこれだけ暑いとさて少し前の日本はどうだったのだろうかという問いかけが浮かぶ。自分が青少年期ってここまで暑くなかったことは確かだがそれを実証的に調べてみるとどうだろうか。

そしてそう思う人は自分だけではないようで、僕の勤め先では毎週月曜日の朝礼でHSSE(Health Safety Security and Environment)講話と言って安全衛生にかんする豆知識を調べて持ち回りで発表する習慣があるのだが、つい先日、同僚がそれを調べて発表してくれた。

昭和51(1976)年7月の記録では最高気温は全て34℃以下、前年の昭和50(1975)年は34℃に到達したのはわずか1日。昭和52(1977)年に至っては全て34℃未満。その傾向はその後もしばらく続く。そして日本の気温が急激に上昇し始めたのは昭和も60年を過ぎた80年代後半以降、平成に入ってからその傾向が顕著になっているとのことである。確かに自分の記憶としてもそうだ。

僕が高校生だったのは昭和57-59(1982-84)年の3年間だが、高校3年の夏がそれまでに比べて非常に暑く、冷房もなかったから教室でバケツに水を入れて気分だけでも涼しく感じるよう努力をした記憶がある。ただその時でも気温は34℃だった。30年以上前のただ1日の気温をなんで今でも覚えているかといえば、当時はそれが異常な暑さで、その暑さが受験勉強の苦しさと相まって印象に残っていたからだろう、きっと。

逆に言えば、その前までの夏といえば灼けつくような日差しという言葉はあってもそれは他の季節に比べての比喩的な表現で、昨今のような外にいるだけで本当に痛くなるような日差しとは無縁であった。それよりも夏といえばどの季節にも増して活力が湧いてくる時期で、逞しい入道雲とどこまでも続く青空に優しく見守られて青春を謳歌する、振り返るとそんな時間が若き日の僕たちが過ごしていた時代の夏の季節感であった。
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その優しかった夏の時代、僕にとってその時代の夏の光景は海と結びつく。そして僕が殊の外、気に入っていたのは海の光景は山陰本線中部。

初めてそこを訪れたのは高校2年の修学旅行。旅行自体はバスでの移動だが途中、山陰本線を並走し休憩のため止まったドライブインのすぐそばにあった駅が五十猛。

この駅の近くで見た日本海と小高い丘の織りなす美しさに魅せられ、大学に入って、また社会人になってからも何回か通った。

# by michikusajinsei | 2018-09-04 06:37 | 山陰本線 | Comments(0)

昭和57年 一畑電車

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この写真は昭和57(1982)年の夏に部内合宿で訪問した山陰は松江の鉄道、一畑電車の車輌である。

前回の記事では色素添加フィルムの劣化について恨み言を書いたが、今回は、経年変化が単純な劣化ではなく、いい意味で風化され現像当初にはない味わいを持つ場合があるというお話である。

この時の撮影は未だ自分の中でフィルムの使い方をどうするか考える前で普通にネガカラーであった。フィルムカメラが衰退した今となっては説明しないとどういう風にして写真を楽しんでいたのか判らないのかもしれないので書くと、フィルム写真全盛の当時、普通の写真屋さんに写真の仕上げを頼むと絹目と光沢という選択肢があり好みに応じてそれを選ぶのだが、その名の通りコントラストが高く華やかな光沢仕上げと、色調は地味だが画面の艶が落ち着いた絹目仕上げがあった。

この二つの仕上げ方法があったが、今もインスタ映えといわれる色彩のはっきりした表現が好まれるのと同様に、フィルム時代も主流は色彩が派手な光沢仕上げだったが、僕個人はテカテカ光る画面がどうにも好きになれず普通は絹目を好んで注文していた。さてそれで、この時も旅行から帰ってすぐに現像焼き付けにだしたのだが、期待に胸を弾ませて出来上がった写真はというと、そういった仕上げ云々以前に平板な階調で朝の光と空気感に包まれた現場の雰囲気が伝わってこず落胆したのを覚えている。艶の落ちた絹目仕上げだと駅舎にしても電車にしても歳月を経た重厚感は画面の中で沈んでしまう。おまけに写真の大きさも手のひらサイズだから迫力も生まれず、がっかりしてもう一度綺麗なプリントをと言う気持ちも起きないまま、タンスの中に30年以上眠っていたのである。

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そんな気持ちを30年以上経っても覚えてはいたのだが、写真の出来云々ではなく車輌自体の珍しさと同時期のフィルムの想像以上の劣化による危機感から慌てて今回スキャンしてみたわけだが嬉しい不意打ちというのだろうか、意外な写真に出来栄えにしばらくパソコンの画面を眺めてひとり悦に入ってしまった。スキャンした一畑電車の写真、パソコンのスクリーンにこの画像が現れた時、想像していたものと実際に現れたそれとの感覚の違いに思わず唸ってしまったのである。それはなんて言うのだろう絵画的な味わいと言うべきか。青みがかった薄い膜をまとったような色彩が現れた画面を見た時、そこに写真ではなく筆使いによる描写、それも油画ではなく水彩画のような柔らかさを感じたのだ。

写真というものが言葉通り真実を写すものならば今回のスキャンデータは現場の雰囲気を正確に反映しているわけではない。というよりありえない世界が表現されていると言った方が正確だ。しかし画面を覆う青い皮膜に真昼間の抜けるような青空とは違った、柔らかな朝空のもつ微妙なグラデーションと朝露の立ち込める空気感が感じられてならないのだ。手前味噌な表現と言われたらそれまでだが、この2枚の写真を見ていると35年前の夏の雰囲気が自分の心の中にありありと蘇ってくる。

初めての大旅行、それまで見たこともなかった地方私鉄の旧型電車、交換待ちの停車時間、興奮して軽い躁状態のようなフワフワした気持ちで友人たちと電車を取り囲んで夢中でシャッターを切った、そしてその時に同時に感じた朝日の輝きを昨日のように思い出す。

物理学の延長にあるデジタル写真では生まれ得ない化学反応によるフィルム写真ゆえの作用。しかも怪我の功名のような結果であるが30数年前の感動が思わぬ形で還ってきて自分な中では静かな喜びが湧き上がってきたのだった。
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一方、車内を写したこの写真。実はこの写真を撮った時のことは上の2枚とは対照的に全く覚えていない。その頃は写真を撮ることとは自分にとって車輌の写真を撮ること、それ以外の光景を撮ることはほぼなかったのだが旧型電車の車内を記録しておこうと思ったのか珍しく車輌以外の写真を撮っていた。

夏休みでガランとした早朝の電車、本を読むのに夢中な高校生、手持ち無沙汰からかぼんやりと窓外を眺める老人。木造下見板張りのホーム待合室と民家、板張りの床に運転席と客席に仕切りのない電車。戦前の面影を濃厚に残す車内ではあるけれども高校生のもつボストンバックにはPOPEYEのロゴがプリントされている。もしかしたらその時の自分はそこにミスマッチを感じていたかもしれないが、今となってはこれも時代の風景。マジソンスクエアガーデンだとか当時はこういうロゴを派手にあしらったカバンが流行していた。

その時代的には何の特徴もない光景だが、乗客の風情も窓外の建物も今となっては還らない光景である。一両の電車や一軒の建物といったものは保存できるが、それらが共存していた当時の雰囲気・空気感といったものは、過ぎてしまうとそれを共有できたもの同士でしか感じることができない儚さをどうしても感じてしまう。

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最後の写真はそれらから数年後、学校を卒業し社会に出てから、つまり平成に入ってからの写真である。特に昔の一畑電車が好みでそれを目当てにしたわけではないが、それでも旧型電車が残っているかなあと期待して久しぶりに訪れた山陰で目にした電車は味気ない大手私鉄の払い下げ、がっかりして通りすがりにこの写真を撮っただけで終わってしまった。

ただこの車輌もよくみると旧式のイコライザー型台車を履いている。調べてみると西武鉄道の新性能電車一期生で昭和34年に製造され、車体は当時の国鉄最新型である山手線を走っていた101系に準じているが下回りは国鉄旧型国電の払い下げという過渡期の電車。

前回の記事では新規装置導入推進派と実績重視派の意識の違いみたいなことも書いたが、この電車を見ていると中間的な回答もあるもんだな、と思う。外観や車内設備は最新型でお客さんから好評を得たいし、一方で保守を担当する現場は手間と費用のかかる新型の導入にはどうしても慎重になる。その中で均衡点として当時の西武鉄道が出した回答がこの電車。それはそれで西武鉄道の社風というものが出ているのかもしれない。

特に目を惹くこともない平凡な一枚の写真にも様々な物語や時代の風景、歴史を思う楽しみが隠されている、改めてそう思う一畑電車の写真である。

# by michikusajinsei | 2018-08-20 07:08 | 山陰本線 | Comments(0)