昭和62年 北陸鉄道

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さらに言えば、もう一つ思うところがあった。エリートとノンエリートの距離である。もっと正確に言えばエリートならざるものの葛藤であろうか。

石井監督の青年時代、大学進学率は10%以下、今から見ると想像の外だが、県下一番の高校に進学しても大学に行けなかった秀才たちが当たり前にいた時代である。衆に優れた能力がありながら、そしてそれが認められていながら、同じラインでスタートできない人たち。彼らの気持ちはいかばかりか。

サッカー界もまた例外ではない。協会中心部の多くは早稲田や慶応、教育大といった大学を卒業し三菱重工や古河といった名門企業に属してプレーしていた人たちが引退して指導者となっていた。昭和的なアマチュアリズムとは一面、恵まれた一部の人間で成り立っていた世界である。対して上に書いた石井監督の経歴は正に叩き上げ、高卒で新興チーム出身、決して主流のそれではない。しかも切り札と言われた人物の後任である。重圧や孤独感の深さを人一倍感じていたのではないだろうか。

しかし、そういった自身を取り巻く環境の中でも、世論に迎合することも、かといって徒らに反発することもなく淡々としかも勝つために何をすべきかを考えて着実にチームを作り上げていった。

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選ばれた選手も同様だった。

代表に選ばれる選手には2通りの人材がいる。一つは誰が監督になっても選ばれる選手、実力が監督の手腕を越えたと評すべきか、彼らの能力を軸にしてチームが組み立てられる力量の持ち主たちである。

もう一つは、監督が自らの戦術に必要不可欠だと考えて招集する人材、オールスター的な感覚からは必ずしも当代随一という能力ではないが、その監督の構想を具現する特徴を持った選手たちである。

石井監督のサッカーでは後者に味わい深い選手たちが何人かいた。とりわけ僕が印象深かったのはディフェンダーの金子久と中本邦治、フォワードの手塚聡である。彼らは代表選手としてはほぼ石井監督の時代のみ選ばれた選手である。いかつい風貌が特徴の金子は試合中、正に鬼神のような面相でヘッドでボールをクリアしまくっていた。接近戦でのマークがうまく、出身チームでは後の代表監督となる岡田武史、代表では加藤久というディフェンスリーダーとして傑出した指導力の持ち主に指揮されると力を発揮するタイプであった。

中本邦治は非凡な平凡さと形容すべきか、特になにか強烈な個性や得意技があったわけではない。しかしディフェンダーに求められるまず第一の能力は、相手チームのプレーのスピードを落とすことでありマークした相手の自由度を制約することである。その点において中本の安定したマンマークは特にフォワードの選手のスピードを落とさせることに長けていた。

しかし何と言っても石井一家を象徴するのは手塚聡である。厳密に言えば彼はその前から代表自体には呼ばれていた。実際ツボにはまった時の爆発的なシュート力は当時のサーカーリーグで比肩する選手はいなかったが柔軟さに欠けるため森監督の頃は代表に呼ばれても控えに甘んじていていることが多かった。しかしそのプレースタイルは石井監督のサッカーには非常に相性が良かった。攻撃において柔の水沼を補完する直線的で力強い突破力も魅力的だったが何と言っても彼のプレーが胸を打ったのは泥臭いまでに相手ボールを追いかける姿勢である。また時には中盤より下がってボールをクリアすることさえあった。そういったフォワードらしからぬプレーは石井サッカー批判の格好の標的になったが、僕は戦術を越えて彼のその姿、ひたむきさ、あるいは選ばれたが故にその責任を全うしようとする姿勢に心を打たれた。

2次予選、国立のシンガポール戦だったか、右サイドを突破して強烈なシュートをたたき込んだ得点。得点自身も豪快で強烈な印象だったが、なによりも感動したのは帰宅してみたテレビの映像。試合が終わってロッカールームに戻る通路で号泣している彼の姿だった。
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こう言っては何だが、2次予選のシンガポール戦は実力差もあったし、試合自体に特別な雰囲気や性格があったわけではなく普通に実力を発揮して勝てばいいだけである。勝ったからといってオリンピックに出られる段階ではないし難敵相手にようやく勝ったというわけでもない。

ほとんどの選手にとっては勝つことは嬉しいことだったろうし、負けなくてホッとしたという気持ちはあったろうが勝って感激したというレベルの感情が湧き上がる試合ではなかったはずだ。それに手塚自身、デビューしたてという歳でもなく、もう30近い年齢、ベテランと言ってもおかしくないキャリアの頃である。

にもかかわらず、あたりはばからず号泣。

彼がどういう人生を送り、そしてこのグラウンドに立っていたか、それは詳しくは知らない。日本代表に継続的に選ばれているくらいだから若い頃から一目を置かれていたことは確か。ただ選ばれてはいたが華やかに脚光をあびるほど活躍していたわけではなかった。

代表の候補になり合宿に呼ばれる、そしてメンバーに選ばれる時もあれば呼ばれない時もまたある。そして呼ばれてもスターティングメンバーとして出場することは滅多になくベンチウォーマー。何回かに一回、後半に少し出場して終わり。あけすけに言えば戦力というより一軍の練習相手として呼ばれているのに近い。

代表に選ばれ続ける能力と実績がある、しかし選ばれてもそれを発揮する機会がもらえない。そんな中途半端な状況に対して屈託がないはずがないだろう。

いったい、何が足らないのか。能力なのかチーム戦術への適応性なのか。確かにエースはいる。しかしエースだけではチームは成り立たない。エースの代わりにはならなくても自分の役割は果たせるはずだ、少なくともその機会を与えてもらえないか。

そんな葛藤を抱えていた中で巡ってきた機会、そこで出した一瞬の答え、この時の手塚聡のゴールと彼の試合後の涙はまさに自分自身の存在価値を発現できた者のみが味わうことができた喜びそのものだったのではないか、そんな風に思えてならなかった。

いったい自分は何になれるんだ、あるいは何かを実現できるのか、誰か自分を見てくれる人がいるのか、何よりもどこに自分の居場所があるのか。そんな想いに迷いながらプレーを続け、ついにそれを見つけた瞬間、それが彼にとってこのゴールだったのではないだろうか。

今から見れば自分の未熟さや努力不足を脇に置いていておこがましい限りだが、そうした彼のひたむきさに自分自身を投影して強い共感を覚えていた。
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とはいえ今書いてきた選手の活躍は実はそれほど注目されておらず、相変わらずチーム自身は批判に包まれながら、それでも勝ち進んでいった。

ネパール、タイ、中共との組み合わせとなった最終予選。ネパールは圏外だったが他の3国といえば、戦力的には日中はほぼ互角。タイがやや落ちる。とはいえどのチームでもホームでは勝ち点を稼げる可能性が高いと考えていた。とういうことはアウェーの戦いが勝利を決める。もちろん勝てればいいが引き分けに持ち込めれば勝算が立つ。これが3チーム共通の置かれた状況。そして必ず何処かのチームが取りこぼす、それが致命傷になるのではないか。

それがこの予選を俯瞰した戦力事情である。

日本の初戦はバンコクのタイ戦。その4年前。自分がサッカーに再び関心を持つ直前、ロスアンゼルスオリンピック予選の初戦でこのタイを甘く見て5-2と予想外の敗北。これで歯車が狂って全敗で予選敗退の歴史がある。

結果は慎重に戦っての無得点引き分け。テレビ中継があったわけではないのでこの試合自体の出来はよくわからないが、まずまずの出足で次のネパール戦はホームアウエーとも完勝、ホームのタイ戦は取りこぼすことなくきっちり勝って最終戦の日中対決となった。この時点で中共はタイとネパールに全勝。ホーム&アウェーで1勝1敗ならば勝ち点差で中共が勝ち抜けという状況で日本代表はまずアウェーで戦わなくてはならなかった。

そんな大一番でも相変わらずテレビ中継はないのだから、当時の日本代表の注目度は好事家レベルの関心にとどまると判断されていたのであろう。そして自分自身、正直、勝つことは期待していなかった。なんとか引き分けに持ち込めないか、ホームに持ち込めればあるいは勝機が得られるかもしれない。なんとか負けないでくれ、歯噛みと焦燥感が混じりそんな祈るような気持ちでその晩を送っていた。時計を見ながら結果が入る頃、テレビのチャンネルを回してはニュースのある局で結果の報道を待った。
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確かNHKだった。1-0の勝利を伝えるアナウンサー。映像はない。耳を疑った。本当に勝ったのか。バンコクのアウエーでも得点できなかったチームが堅守の中共を破ったのか。

翌朝の新聞でこんどは写真入りの報道。間違いなかった。石井一家はアウェー広州でその練り上げたチーム力を遺憾なく発揮し勝利を収めたのだった。後にこの時の代表チームを追ったノンフィクションを読んだ時に知ったが、試合後の慰労会で中心選手の奥寺はこう言ったそうである「攻めさせてやってんだ」

横綱相撲の言葉である。

あとはホームの東京を残すのみ、引き分けで予選突破。俄然、有利な立場になった日本代表の最終戦。大きな期待を持って応援に向かった。雨が降ってたが特にそれは気にならなかった。ようやく夢が実現する歓喜を目にすることができる、そんな気持ちでいっぱいだった。そして開始早々に右サイドの水沼からフリーの手塚にパスがつながり強烈なシュート、GKに止められたが力強い進発にさらに期待が膨らんだ。

結果から言うとチャンスはこの一回のみ。初戦で得点を決めた原博実が完璧に抑えられ守備陣がクリアーしてもそのボールはフォワードにつながらない。セカンドボールを悉皆、中共に拾われなんども揺さぶられ続け、とうとう持ち堪えられずに前半終了間際に失点してしまう。自分の目の前の出来事だった。中共のフォワードがフリーになった瞬間「あー」とおもわず声を上げてしまった。そして身体を突っ張らせた。その直後、ゴールが決まった。

守備型のチームは先取点を取られると弱い。後半に入っても目立った反撃ができず得点の匂いが全くしないまま時間が過ぎていく。2年前の日韓戦の時は追いつけるのではという雰囲気が最後まで持続し観衆の熱気も衰えなかったが、この試合は後半途中から諦めムードが漂いだしていた。やがて中共に追加点がはいり万事休す。2-0での敗戦。

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覚悟していたとはいえ敗戦という事実に帰宅する足取りは重かったんだと思う。30年前の話であるのではっきりした記憶はない。どうやって気持ちを入れ替えるべきか、そんなことをぼんやりと考えていた気がする。ただ覚えているのは電車での帰途。総武線で代々木まで行き山手線に乗り換えた時だったか、そこでは淡々とした夜の日常が広がっていたことである。代々木駅のホームにも山手線の車内にも熱狂や悲嘆といった高陽した感情はなく人々は静かに移動し散っていた。

自分はこの2年間、夢を追いかけていた。何かを成し遂げるという夢を日本代表というかたちのそれに託して追いかけていた。最初は大学に入って生活や環境が変わったことの浮遊感を埋めるような気持ちだった。自分が知らない世界を見てみたいそんな気持ちから日本代表を追いかけ始めた。しかし途中で落第という現実がそれを少しばかり変えることになった。挫折感である。それから立ち直るために何かが必要だった。

それは何だったのだろう。やはり夢か。いや夢という抽象的なものではなく具体的に何かを成し遂げるということ、それに関わることだった、陳腐な言い方だがそれによって世間の前に立てる勇気だった、その時は漠然とした思いだったがそんなものではなかったか、と今にして思う。

そしてこの時の石井義信の代表チームはそういった自分の心境と共鳴するものがあった。広州での勝利以外に拍手されることはほぼ無かった。選手も個々の才能ということだけで言えば、第一人者たちが選ばれたと言えないところがあったのも事実である。しかしそれでもここまで来ることができた。それは批判を受け続けても腐ることなく、そして努力を惜しみなく費やした個々の選手とそれをチーム力に昇華させた石井監督の手腕である。

負けたことは悔しかったが挫折感とは違う新たな勇気というか今度は自分が何かしなければ、という気持ちが湧いてきた。そして帰宅する電車の中で目にした淡々とした日常風景に、批判や評価は好悪どちらであっても所詮はうたかた、大事ではあるがそれが全てではないと感じていた。そう僕はこのチームと一緒に夢を見、その夢は散ってしまったけれども別の地平をようやく見つけることができた。同時に日本代表との旅も終わった。

このブログ記事を書いている間にロシアワールドカップが始まり、直前の状況からは思いも寄らない日本代表の活躍は世間を刮目させた。30年前、アジアの壁が破れずに呻吟していたことを比べれば信じられない時代である。むろん僕も試合結果に一喜一憂していたし楽しませてもらった。

しかしやはり僕にとっての日本代表はこの2年間、森、石井の2人の監督時代に尽きる、特に石井監督の時代に。この2年間、大げさに言えば自分の人生を賭けて日本代表を追いかけていた。日本代表の消長が自分自身の存在証明であるかのような気持ち、祈るような勝利への想い。後にも先にもそんな気持ちでひとつのチームを追い変えたのはこの2年間だけである。もちろんこの後もサッカーへの関心は持続しているが、この時のように自分自身の精神状態やとりまく状況と重ね合わせて見るようなことは無い。それくらいこの時の代表チームへの自分の想いは深く熱かった。

そしてこの試合結果は僕にとってはひとつの終わりであったが日本サッカー全体で言えば、これが始まりだった。この2つの敗北がプロリーグの発足に直接つながり、多少の浮き沈みはあれど今日の隆盛を迎える端緒だったからである。30年という月日、当然ながら今の選手たちに森監督や石井監督から直接薫陶を得た人間はいない。ただ彼らの実績と苦い経験があったからこそ、それを克服するものが何かを求める努力が続き、優勝候補と互角の試合を演じられるこの日を迎えられたである。

試合会場で見かけたことはあったが、直接話したわけではないこの二人の監督は自分自身にとって人生の進む道にある光を与えてくれた恩人である。森監督は一足先に数年前に旅立ち、そして石井監督もまたこの世を去った。故人の霊に哀悼をささげると同時に、青春期の彷徨の中、道が見つからずに苦しむ中で「生きてゆくとはこういうことだよ」と日本代表というチームを率いることで示してくれた彼らに、届くわけではないが感謝の声を伝えたい気持ちでいっぱいである。

# by michikusajinsei | 2018-07-14 08:46 | 北陸鉄道 | Comments(0)

昭和61年 氷見線

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前任の森監督は高校時代からスター選手。早稲田大学から三菱重工、そして代表でも銅メダルをとったメキシコ五輪に出場している。指導者としても早い頃からいずれは代表の監督にと嘱望された存在だった。生まれも昭和18年だから当時は30代後半から40代前半、年代的には選手にとって兄貴分のような存在、まだ選手としてもプレーできるような若々しさを持った青年監督だった。

一方の石井義信さんは、昭和14年の生まれで高卒で東洋工業に入社だから昭和33年か。特にサッカーの才能を見込まれてというのではなく一般試験で入社。その入社した東洋工業は草創期の日本サッカーリーグの盟主でリーグ創設から3連覇を成し遂げたチームである。高卒で入社しサッカー部に入部してチームの主力になり、また記録によれば昭和37年に一度だけ日本代表に呼ばれているので選手としての実績も残してはいるがむしろ花開いたのは監督としてである。

請われて新しくサッカーチームを結成した藤和不動産に選手兼コーチとして転職、県リーグの4部から4年で最高峰の日本サッカーリーグ1部に昇格するのに貢献。そしてそのチームを引き継いだ親会社のフジタ工業の監督として4年間でリーグ、天皇杯をそれぞれ2回優勝という実績は名監督と呼ぶのに相応しい。そして監督退任後はサラリーマン家業の傍でサッカー協会の仕事をしていた。ただ協会の仕事と言っても日本サッカーリーグの運営委員という肩書きだからいわば裏方の仕事、代表チーム強化や育成と言った現場からは離れていた。

代表の監督になるまではそういった経歴の持ち主である。
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ただ、ここまではもっぱら記録の中で知った経歴であって僕自身が目で見た歴史ではない。

僕が石井さんを覚えていたのは、地元のテレビ神奈川で時折、解説者として出演、テレビ向きの派手な形容はないが、淡々としかし理知的でわかりやすい解説者として印象に残っていたからである。

実は僕は中学の頃、サッカーをしていたのだが学校生活の途中から鉄道を追いかけるのに夢中になってしまいサッカーをするのを止めてしまったし、プレーしていた頃も日本代表がニュースになることなどほとんどなかったから正直なところ関心がなかった。

そして受験が終わり、また鉄道趣味も熱心に追いかけていた旧型国電やEF58が引退して一区切り感があった時に再び巡り合ったのがサッカー、それが昭和60年の代表チームだった。ただ昭和60年のチームは僕が出会う前にそのカラーはできていた。端的に言ってしまえば、森監督の就任は僕がサッカーに再会する前の出来事である。

その意味で、愈々、サッカーにのめり込んでいく中、初めて最初からその歩みを共にするようになったチーム、それが石井監督率いる昭和61年の代表チームだったのである。

その石井監督の代表チームであるが、与えられたタスクは2年後に開かれるソウルオリンピック予選突破であった。開催国免除のため、何度も煮え湯を飲まされた韓国が予選相手にいない。そしてその韓国を相手にあと一歩まで追い詰めた選手の主力は健在、日本人プロサッカー第一号で西ドイツで活躍していた奥寺康彦の復帰など好条件が揃っていたし、石井監督の率いた時のフジタは破壊的な攻撃サッカーで鳴らしたチームであったとの情報もあり、誰もが華やかな攻撃サッカーでの好成績を期待したものだった。

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しかし石井監督はそういった期待を全く裏切り正反対のサッカーチームを作っていった。当時の言葉で言えば「専守防衛サッカー」ひたすら守りを固め、攻撃は水沼貴史が一発のパスで相手を切り崩し、アジアの核弾頭と言われた空中戦に強い原博実のヘドに合わす、それに破壊力のあるシュートが持ち味の手塚聡がそのこぼれ球を狙うというほぼこの組み合わせのみ、それで試合の中で数少ないチャンスを狙うというサッカーであった。

攻守にバランスの取れたチーム、あるいは華やかな攻撃力を誇るチーム、サッカーに限らず球技全般こういうチームが万人に好まれるチームであるが、それと全く反対のサッカーを志向したものだから当時のサッカージャーナリズムから総スカン、その中でも毎日新聞は比較的、好意的な態度であったが他の新聞雑誌は全て勝ち進んでもこのチームにはまるで期待を持てないという論調だったのを覚えている。森監督が作り上げた攻撃サッカーを目指す路線を放棄し時代に逆行したサッカーだ、と。

しかし僕は違った感想を抱いていた。

サッカー熱はワールドカップが終わってからますます嵩じていた。入場料が安かったことや、都内までの定期券があることから千駄ヶ谷、西が丘の両国立競技場へも行きやすかし、もちろん地元の三ツ沢へも。登場するチームにこだわらず毎試合、サッカーを観戦に行った。サッカー雑誌記者を除けばこの2年間、最も競技場に足を運んだのは僕だったのではないだろうか、そう思うこともあるくらい通った。それこそ雨の日も雪の日も。企業応援団の存在で盛り上がる試合もあったが、6万人はいる国立に数十人しかいない試合などもあった。

それだけ数をこなしていくとある程度サッカーを見る眼も養われてくる。そしてその眼からみて、どう贔屓目に見ても攻撃サッカーを主体に代表チームを編成するのは無理だった。次のワールドカップを目指して4年という時間を与えられるのならばあるいはそれもでいたかもしれないが、与えられた時間はわずか1年である。現場を任された監督は夢想してなどいられない。昭和60年のチームの中心だった木村和司は不調であったが、同じ日産チームで弟分であった水沼貴史の成長が目覚しかった。守備の要であるリベロの加藤久とヘッドが強いフォワードの原博実は健在、そこに経験豊かで攻守共に本場ドイツで歴戦をこなした奥寺康彦を加える、それが軸。というよりそれしか国際舞台で計算できる戦力がいない。その限られた人材でいかにして戦えるチームを作るか。

外野の我々は好き勝手なことを夢想し色々と注文をつける。しかし結果を出すのは監督の目指すサッカーとそれを具現化する選手である。監督、石井義信はマスコミ論調に惑わされることなく現実を見据えた適格なチームを編成している、そのように感じていた。

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ただその頃、僕が石井監督を支持していた心情はそういう評論家的な視点だけではなかった。

前任の森監督の昭和18年生まれに対して石井監督のそれは昭和14年だから、世代的には同世代といっても差し支えない歳の差でしかないが醸し出す雰囲気はまったく違った。事実、マスコミの代表チームに対する形容も前者の「森ファミリー」に対して後者は「石井一家」

森監督にはどこなく青年監督を見る暖かい雰囲気や感情があったし森監督自身にも育ちの良さから感じられる優しさ、厳しく言えばそれは甘さというべきかもしれない、がそいうものがあったのに対し、石井監督は自身の醸し出す雰囲気、そしてその決断には冷厳さ、わからない人間にはわからなくてよいと言いたげな空気が常に纏っていた。あるいはこれが志向するサッカー以上にマスコミから嫌われた一因だったかもしれない。

森監督が歳の離れた兄貴、あるいは話のわかる叔父ならば石井監督はまごうかたなき父、それもニューファミリーと言われる世代の前にあった世代の父親の雰囲気を濃厚に漂わせていた。

苦労人であるが、言葉に表すことができない不器用さ、それでも背中でわかってくれよと言いたげな哀感、現実の父親たちの考えは相入れなかったし、それに反発してはいたが、一方で貧しかった時代からとにもかくにもGDP世界第2位の地位に登りつめた戦後日本の原動力、自分たちは果たして同じことをできたのであろうかという畏怖の気持ち、僕らの世代が感じていた父親とはそんな存在だった。

石井監督の姿勢にそういった尊敬と反発が入り交じった自分の屈折した心情が反映していたこともあったのである。

# by michikusajinsei | 2018-06-20 07:22 | Comments(0)

平成30年 関内

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もう何年かぶりという忙しさであたふたしています。

渋谷のシネマヴェーラでは「美しい女優・美しい衣装」なんてもう舌舐めずりしたくなるような旧作邦画の企画上映があるのですがほとんど行けていません。

これは、連休中の写真ですがこの時のノンビリモードが嘘のよう。はやく、喫茶店でのんびりとお茶でも飲みたいです。

しかしあれですね、こういう銅製のマグカップに入れられたアイスコーヒーって見た目だけで涼しく美味しそうに感じますね。

# by michikusajinsei | 2018-06-08 07:20 | 横浜 | Comments(0)

昭和62年 越美北線(その3)

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人生には上り坂と下り坂以外にもう一つ坂がある。その坂は「まさか」ゆめ、そのことを忘れずお過ごしなされ

度々、耳にするアフォリズムである。そしてこのアフォリズムを噛みしめるのはまさに、まさかの事態が起こった時、劣等生で成績下位の位置には慣れていたが、さすがに落第はまさかの事態。正直言えば、衝撃が大きすぎてその事実を知ったときどうだったか憶えていない。そして、それから直ぐに、こんどは虫垂炎が発症。薬で散らすには症状が進んでいて入院して手術する羽目になった。

手術そのものは無事成功したが、術後の管理が必要で盲腸にしては長く2週間の入院。退院してきた時はかなり体力が落ちていて2階への階段を上るのも難儀する有様だった。またこの入院期間がちょうど新学期にまたがっていたので友達の幾人かは落第のショックで僕がドロップアウトしたのではないかと思ったらしい。

まあそう思われても仕方ない状況だったがでも今から思えばこの入院で救われたところがあったかもしれない。落第という現実を日常ではなく非日常的な入院生活という中に逃げ出すことができたからである。

ただ、今、これを書いていて気がついたが、この時、親の気持ちはどうだったのだろうか。親にしてみれば学校は落第、それはそれで怒りや失望、心配、様々な気持ちが交錯しただろう。そして更に今度は入院である。盲腸の手術とはいえまさかはある。とりあえず学校のことは措いて無事であれ、そう強く願ったのだろうな、手術前の両親の面差しを思い返すとそんな感慨が浮かぶ。当事者である自分はもう現実に圧倒され翻弄されていて他人の気持ちを推し量る余裕など全くなかったが、30年が経ち、ようやくあの頃のことをこうして振り返ることができるようになった今にして、親の気持ちというものに想いを馳せる余裕もでてきたということか。

閑話休題、その「まさか」がそれこそマサカ、横浜市内のバス停にあるとは思わなかった。

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ところで、この落第、入院の時期に前後して僕はどんどんサッカーに傾斜していった。

病も癒え、気持ちも少し持ち直した頃にメキシコでW杯が開催された。マラドーナの5人抜きが演じられたアルゼンチン対イングランド、雨中の激闘、点の取り合いの末、4-3でベルギーが競り勝った旧ソ連との対決。後に史上最高の試合と称されることになるプラティニのフランスとジーコ・ソクラテスのブラジルとの延長PK。後世に語り続けられることになる試合の数々に酔いしれた。それらの試合はビデオに取ってその後何度も飽かずに見続けた。

けれども、そこに我が代表はいない。後少しで同じ空の下に、希望と期待を持って心から応援できる母国の代表チームを見ることができた、もう少しの距離だった、

残念さもあったが、見えてきた世界の背中に追いつく期待感を持った。そう期待感、その気持ちは明日を信じることでもある。落第して惨めな気持ちでいた自分の心にも、少しづつ、そしてまだ行きつ戻りつでもあったが、希望と復活を期す気持ちもサッカーの試合を見ることで生まれてきた。
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ただ、その時期、足下の日本代表チームは少しばかり揺れていた。敗れたりとはいえ我々の代表チームという誇りを持つことができたチームを率いた監督の森孝慈さんであるが、さらなる高みを目指すために続投を要請された折、監督のプロ化を要求し当時の協会にその考えが容れられないと続投を断り退任してしまった。今と異なり、昭和のスポーツ界はある種のエリート意識に支えられたアマチュアリズムが主流だったのである。

誰もがその手腕を認め、そしてさらなる躍進を期待できる指揮官がいなくなったってしまった。正直、何やっているんだという怒りというか落胆というか、どうにもならない感情を当時抱いたものである。

そして、森孝慈監督の後任として代表監督に就任したのが、石井義信、その人だったのである。

# by michikusajinsei | 2018-05-30 07:20 | Comments(0)

昭和58年 広島電鉄

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先週末、流れていたTwitterのタイムラインで強く印象に残ったつぶやきがあった。

「旧い定食屋で昼飯を食べていた。その食堂にあるテレビが西城秀樹逝去を報道すると、明らかに自分より年上のおじさんが見事に全員動きを止め、画面を見つめていた。みな何かを思い出しているようだった。本当のスターだと思った」

僕もまた同じだった。エレベータの中にあるテレビを何気なく見ていてそれを知ったとき、固まってしまった。そして彼がいた時代の在りし日々のことを思い返していた。

享年63、僕が51歳。この歳になれば干支一回りはそれほどの年齢差ではない。ただ彼が過ごしてきた、あるいは演じてきた年月と自分たちの成長とにあった年月の差は実際の年齢差ではなくて原点である昭和40年代での出会いにあるように思えてならない。

彼のデビューは昭和47年、僕が幼稚園の頃であるである。「楽しい幼稚園」或いは「小学校一年生」か。うろ覚えだが、そういう幼児向けの本に郷ひろみや野口五郎などと共に掲載されていた。そして考えてみれば、それが人生でスターという存在を知った最初だった。爾来、幼児から少年そして青年期まで我々の世代が成長していく日々、彼はずっとスターだった。

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ただいつの頃からだろうか、たぶん脳梗塞に倒れる少し前、今世紀初頭くらいからその姿をテレビで見かけることは少なくなっていたし、正直言えば僕の中でも特に思い出すことはなかった。しかし流れる月日の中で、彼のことをもう一度意識する、あるいは見直す機会があった。それは数年前、テレビを見ていて脳梗塞の後遺症かもうヤングマンが踊れず、でも衣装だけは往時のまま立ち尽くして歌っている番組を偶然目にしたのである。

歌のリズムとダイナミックな振り付けとの一体感が魅力のこの曲をいわば片翼がもがれた状態でなお代表曲として歌うことを望まれる。その姿は衰えたという生易しいものではなかった。見てはいけないものを見てしまった、そういった感情が湧き上がった。しかし同時にそこまで追い込まれながら、傷ついた姿をさらすことになっても逃げることなく舞台に立つ、なにか近寄りがたい畏怖というか威厳に満ちた姿、力強さというものがそこにあった。人の姿として何か大事なものを見た、そんな風にも感じた。

あいつはできるな、やっぱりたいしたことがないや、我々のほとんどはそういった他人の評価で生きている。他人の評価で光を与えられ、また時には影も作られる。しかしその中でわずかな人々は自ら光を発して他人の評価というものを超越していく、それがスターという存在。その意味で西城秀樹はまさにスターそのものだった、特に彼のファンではない自分にしてもそう思う。

平成が30年たっても、やはり自分の周りの過半は昭和生まれである。そして自分にとって30年前の時代というのはついこの前、その意味で自分の中では昭和は遠くなった、そういう風には思えない。とはいえ、見慣れた風景、人々がいつのまにか消えていく。ただそこにあるだけ、いるだけで、その時代、その世界に戻れる存在が消えていく。改めて思えば昭和40年代、50年代、自分の幼少年時代、これは確かに遠くなった。誰もが思い出として共有し、それぞれの経験、実感として語り合えていた記憶の世界から記録として語られる歴史の世界になっていく、そんなことを強く感じさせる彼の訃報だった。

合掌

# by michikusajinsei | 2018-05-23 07:00 | 広島電鉄 | Comments(2)