平成31年 謹賀新年

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夏にも書きましたがそれにも増して年末は「平成最後の」という声があちこちで聞かれましたね。確かに昭和と比べると通用性という点で平成は西暦に取って代わられた感があります。じゃ昭和の頃はどうだったかというと僕が小学校の5年生だったかな、担任の先生が笑いながら自分の生まれた年を西暦で言える人って問いかけたら手を挙げた人は半分にも満たなかったことを今でも覚えています。そのくらい当時は西暦の影が薄かった。まあ、でも昭和の一時期も「皇紀」という時間軸を使おうと官民挙げて盛り上がった時期もありましたから歴史的時間と生活時間を統一したいという考えは昔からあったのですし、元号も由来は漢語文明、西暦同様に輸入文化ですからそれを墨守するのが伝統というわけではありますまい。

とはいえ元号という歴史時間に人生の哀歓を投影できる、これは日本人に生まれたある種の特権、そんな風にも思います。明治以降は一世一元、一人の人物の人生が時代の区切りになりますし、普通の人間にとって肌身の感覚で時間の流れを時間できるのはやはり祖父母から自分の生涯までくらいの期間が常識的、そして元号という時間の制約は肌感覚の歴史時間と絶妙に連動しているというかそのものだと思うからです。

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僕は昭和が終わった日、21歳でした。そして平成の終わりの日を52歳で迎えることになります。

僕は日本の近代たる明治から平成の期間、明治元年以降、日本人は6年で一つの世代と括れるのではないか、そういう仮説を持っています。さらに言えば明治元年から18年まで、明治19年から昭和20年まで、そして昭和21年以降の生まれと大きく括れると思っているのですが、それはともかくとして、その伝でいえば、僕の同世代は昭和39年生まれから昭和44年生まれまで。最年少の44年生まれが昭和の終わりに19歳です。昭和最後の20年間はまだ戦前戦中の記憶が鮮明な世代が健在でしたし、現実世界は経済が力強く成長していた時代で両親の世代はその中核でした。そういう昭和を担った世代の薫陶の下で育った世代、人格形跡期が丸ごと昭和であった最後の世代、単に昭和生まれというだけではなく時代の風景としての昭和を語れる最後の昭和人、そんな風にも言えると思います。

そんな昭和に対してたまらなく愛惜の感、郷愁の念を持つことはひとかたならぬものがあるのですが、人生という学校で我が身が鍛えられたのは平成という時間でした。

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平成という時間の中、僕は、あるいは僕たちの世代は何をしていたのでしょう。

昭和の残照の時間、底が知れない不況の恐怖と戦った時間、ジャパンバッシング、ジャパンパッシング、ジャパンナッシングと世界における存在感が頂点近くから急速に低下させていった時間、一方でITの幾何級数的な発展による全く新しいコミュニケーションの世界やバリアフリーの発展深化、公衆空間の完全空調化など快適性が目に見えて進歩した面もあります。今あげたような、それぞれの状況や背景、支える技術や思想というものがありますがそういった変化に対して最前線に立って社会および家族の営みを支えてきました。そうして送ってきた平成の日々の物語はまだ生々しくてとても書けるものではありませんしその物語はまだ終わっていません。ただクサい言い方になりますけれど、その苦闘の中で鍛えられ、先輩たちの世代と同様にままならない状況に対して汗と涙を随分流したものではあるとの思いはあります。

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今回の風景も昨年同様、冬の北海道です。

「地平らかにして天成る」

当時の小渕官房長官の由来説明で平成の世は始まりました。その前の昭和が常に「激動の」という形容詞をつけて語られていたことと比べて、なんとも落ち着いた語感、静謐さを感じてその二文字を受け入れた、そんな記憶が自分にはあります。

平成という時代は確かに間も無く終わります。その日がなんで4月30日なのか違和感は正直あるのですが、それでもその日までは今上陛下の御代、平成という時代は続きます。逆に考えれば平成という時代をかみしめる期間が年の3分の1、4ヶ月もあり昭和と平成の間にあったような慌ただしさはあまり感じません。転換点ではあるが一方で継続を強く意識させる年、そういった年である平成31年、平成最後の年頭にその幕開けに感じた感情を改めて思い出したい、そんな気分で静謐さを感じさせる風景を選びました。

平成という年代はまもなく終わりますが、今上陛下もご譲位されますが健在ですし、平成という時代の風景で学びまたその時代に課題を残している僕の人生の旅もまだまだ続きます。

今年一年もまたよろしくお願いします。

道草人生拝

# by michikusajinsei | 2019-01-04 09:36 | 北海道 | Comments(0)

1988年 PARIS

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自分自身は絵心というものが全くなくて、絵を描けと言われるとそれはもう苦行そのもの。できた絵はポンチ絵というレベルですらなくこれは謙遜でもなんでもなく幼稚園児レベルの下手さ加減なのだが、絵、というかデザインを楽しむことにかけては結構年季が入ってるとの自負がある。

まあ、そんなことで威張ったってしょうがないし、だから何なのと言われると二の句が継げないが、それでも人生の引き出しは多い方が良いと信じているし、そういう趣味が一致して縁ができた関係もある。

もっともそれがいつからかと言われても定かではないが、たぶん写真を撮るようになってから、少しでも良い写真が撮りたくて色々な写真集、画集などを見ているうちにいつとはなしに、徐々にそれ自身を楽しむようになったといったところか。段々に手段が目的化していったのである。とにかく素直に興味のあるところに身を任せて歩いていたら別の世界に出会った、そんな感じであろうか。

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僕は趣味の世界での志向性を考えるとき、コンテンポラリー派とディスコグラフィー派に分けられる、そう思っている。同じ音楽やもの、人を好きになっても、見えている世界の違い。大げさかもしれないがこの2者では世界観そのものが違う。前者は現在進行形の世界そのものを追うことが興味の中心になり、後者は過去にさかのぼってルーツや変遷を楽しむ、そういった感覚であろうか。

これは例えば音楽の話だと僕の世代で言えばベストヒットUSAかミュージックトマトで洋楽を聴き始めても、そのまま絶え間なくTOP10をフォローするタイプと、いつのまにかプログレやモータウンなんかに浸っているタイプに分かれていった。

もちろん普通はそれらが入り混じって趣味の世界に浸っているわけだがそこは軸足の置き方の違いというもの、そして僕自身はといえば典型的なディスコグラフィー派、一つの車輌なり鉄道会社を好きになると今、それが走っている光景や纏っている意匠より、そのルーツやどうしてそんな車輌が生まれたかを求めて色々と調べたくなるのが常だった。

そしてそういったものを調べだすと次々と新しい疑問や未知の世界が広がってくる。鉄道趣味という世界の知るうちに芽生えた新たな好奇心、その行き着いたところの一つがデザインという世界、その中でも造形物、就中、建築逍遥の世界だった。

# by michikusajinsei | 2018-12-20 07:22 | フランス | Comments(0)

平成4年 山陰本線(その2)

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その時代、平成元年からその平成7年、それはバブルという真夏の季節が暮れようとする、もっと言えば近代日本という社会が歩んできた成長という季節が終わろうとする時期だった、そんな気がするのだ。

その感覚はなんと言うのだろう、浮かれたようなざわめきが去り軽い寂寥感がありながら盛りの華やかさも残る、非日常の躁状態から日常の落ち着いた状態に戻るほんのわずかの時間、そんな雰囲気だった。

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それは日本社会もそうだったし、僕自身もまた同じだった。

確かにバブルの熱気は去ったが、景気は低迷しているというより巡行期、一旦、落ち着いて調整し、数年後にまた次の上昇があるものと思っていた。

僕自身で言えば、成績が芳しくない劣等感、生意気なことを言っても親のすねかじりで半人前でしかないやるせなさなどからどこか居心地の悪かった学生時代が終わりそれまでの環境をリセット。新たな世界への挑戦という気持ちだけでなく、そういった思うにまかせなかった学生時代から捲土重来を期す、そんな気持ちを抱いていたものである。

そして入った会社はバブルの余韻のために仕事も多くて、会社生活に慣れてくると自分の仕事もまた多くなる。夜の9時過ぎに残業が終えて会社を出るのも当たり前だった。快い疲労感に包まれて通用口を出る、振り返ると不夜城のように全ての階の電気が煌々と照っている。その輝きは活気とそれがもたらす成長のシンボル、そんなふうに感じていた。

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自分ももちろん若かったが、先輩たちもまたみな若かった。仕事を終えてから夜の街に繰り出すのが週に何度も続く日々だった。

踊り疲れたディスコの帰り
これで青春も終わりかなとつぶやいて
あなたの肩を眺めながら
痩せたなと思ったら泣けてきた

ボロの「大阪で生まれた女」の出だしである。

そんな日々、少し上の世代、当時30代の先輩たちとカラオケスナックに繰り出すと誰かが必ずこの歌を歌っていた。

自分自身も含め同級生たちの多くが大学をでて就職したのは平成元年と2年。日経平均が史上最高値を記録したのは平成元年の大納会である。まさにバブルの頂点の時期に就職したわけだが、学校出たての自分たちにはとても眩しくキラキラと映ったその活力も、バブルの渦中を「大人」として経験した彼らにはどうだったのだろうか。

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頂点に向かって燃え上がるような熱気、それはもう去ってしまったのではないか、そんな予感、かといって完全に燃え尽きたわけでもなく、まだその余熱、名残りを感じている、そんな空気感をまとった時代、そんな風に無意識にも感じていたのではなかったのだろうか。

そして、その雰囲気を熱い恋の季節が終わった男と女の世界に置き換えて歌ったこの曲に時代精神との共鳴、過ぎ去ろうとしている自分自身の青春の熱気への挽歌、そういう気持ちを込めてこの曲を歌っていた、30年が経ち、カラオケスナックで彼らと過ごした日々を思い返すとそんな感慨に襲われる。

この歌が作られたのはその頃から10年ほど遡る昭和54(1979)年である。しかし今振り返ると、時代の雰囲気に寄り添っていたのは作られた時よりもこの時代の方ではなかった、そんなふうに感じてならないのだ。

# by michikusajinsei | 2018-12-03 07:09 | 山陰本線 | Comments(0)

平成30年 横浜 大番 & 龍興楼

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タンメンです。

ずーっと知らなかったんですが、タンメンって関東発祥の麺類で他の地域ではほとんどないんだそうですね。いやあ、半世紀生きてきても知らない身近なことってありますな。

シンガポールでは麺類食ってばっかしだったし、その昔の学生時代は北海道駅ソバ全制覇なんてことやってます(単に駅ソバを売っている駅が少ないからできただけです)が、不思議と地元では麺類をあまり食べません。特にラーメンはほとんど食べないんです。なんででしょうね。

あ、いや理由は自分の中であるのですが、なんでラーメンを食べないかというより、たまに街の中華屋さんに入って食べる時となると若い頃はチャーハン大盛り、そして30過ぎてからはもっぱら、このタンメンばっかり注文しています。

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これも不思議っちゃ不思議ですね。それまでほとんど食べたことがないからソウルフードなんてもんではないし、積極的にタンメン食べようってお店に入ることはほとんどありません。でも気がつけば注文しているのはたいていタンメン。シンガポールから帰省した時に食べにいったりしていました。見た目、野菜炒めがラーメンに乗っかっただけの料理になんでこうも郷愁を感じていたのでしょうか。

自分で料理を作っていてたまに思うのですが、料理のコツとは水分の調節じゃないか、と。素材が持つエキスを僕たちはどのように味わっているのか、その答えは水を通じてその素材を味わっている、そんな風に感じます。素材自体の持つエキス、それは旨味でもありときにはエグミでもありますがその素材自体に含まれている水分にそれらが溶け込んで我々に伝わる、調理技術とは素材の水分を加水、脱水、どう制御しているのか、旨味を残し、あるいは増し、エグミを消すとはそういうことではないでしょうか。

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さてタンメン、言うまでもなくタンメンの美味しさは炒めた野菜のエキスが溶け込んだスープの旨さにあります。言い換えれば野菜の水分が染み出してスープの出汁と交じわる渾然一体となった旨さ。しからば野菜に宿る水分はどこに源があるのか。それはその土地に含まれた水分が野菜に吸い出されているわけです。野菜の水分を通じて私たちは、その野菜が生まれた大地を味わっている、そんなふうに言えるように思うのです。

水が合う、そんな言葉があります。

同じ野菜でも産地が違えば微妙な味わいの違いがあります。果物なんかもそうですよね。同じ温州みかんでも地域による酸味と甘みの風味の違いははっきりしています。

冷凍食品はともかく僕たちが街の食堂でたべるタンメンは普通、露地物の野菜を使っていると思います。またスープの水も水道水、麺だって地元の製麺所で作られたものでしょう、普通は。そう考えると僕たちはまさにタンメンを通じて飲み食べ馴染んでいる水を味わっている、そんなふうに言えないでしょうか。

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僕のような関東人がタンメンに郷愁を感じるのは長年生活してきて肌に馴染んだ水を味わっているから、そして逆に安くて美味しくてそして腹持ちの良い、こんな庶民の味方のタンメンの味わいが全国区にならないのは、それがあまりにも関東の風土に根ざした味だからではないか、シンガポールから帰国して2年が過ぎようやくまた生まれたこの街の生活に慣れてきて、しみじみとタンメンを食べながら、そんな風に思うのです。

書いていた原稿を飛ばしてしまったり、多忙による疲れなどが重なり少しサボってしまいましたが、またこのブログでの駄文を書いていきたいと思います。

# by michikusajinsei | 2018-11-13 07:15 | 横浜 | Comments(4)

平成4年 山陰本線(その1)

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「平成最後の夏」

虚をつかれたが、言われてみれば確かに今年の夏はそうだった。一つの歴史的な空間があらかじめ予定されて終わる瞬間。考えてみればそれは日本のみならず世界的にも初めての経験なのかもしれない。

なぜなら区切りはいつも唐突に起こる。静かに流れる大河が、急激に速度を増し、一気にその瞬間が訪れる。

昭和の終わりも、人の寿命に起因するものだからいつかはという想いは誰にもあったが実際に昭和天皇が病に倒れた瞬間は、その直前まで公務についておられたから不意をつかれた感があったし、冷戦という時代の終わりもベルリンの壁が一箇所崩された瞬間、奔流のようにそれまで堅固にそびえているように思われた壁が一斉に壊され、東西の人々が手を取り合い合流するのを目にした。

しかし時代の変化、それ自体はそんなに急には見えてこない。昭和から平成への改元は1日にしてなされたが、社会の営みはそれ以前と変わらずに淡々と過ぎていった。
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特に昭和という時代は、戦前戦後という二つの歴史空間をまたいだ60余年という年月の長さに相応してまたその転換はゆっくりとしていた。当時を生きてきた感覚でいえば、昭和64年1月7日に日は没したがその夕映えの輝きはしばらく続き、その中で我々の社会生活は営まれていた。

しかし振り返ってみると、時代の転換点はやはりあった。昭和という時代、その残照はいつ消えたか。

実感としていえば、それは平成7(1995)年である。
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この平成7年と言う年、阪神淡路大震災、サリンテロ、警察庁長官狙撃事件と事件が相次ぎ、1ドル80円を切る円高と止まらない資産価格のため進まない不良債権処理が相まって誰の目にも経済不況が明らかになり、就職氷河期という言葉が囁かれていた。そして前代から言えば戦後50年という節目の年でもあった。

実はこの年、僕はカタールに赴任していてその頃の日本人が、あるいは日本社会が味わった不安感、そう言うと言い過ぎかもしれないが、いったいこの国はどこに流れていくのだろうか、という不安定な気持ちを完全には共有していない。大震災の時はカタール、サリンテロの時は帰国便に乗るための乗り継ぎで滞在していた香港でその報せを聞いた。ホテルで朝、何気なくつけたテレビでフランス語が流れていた。何もわからなかったが女性アナウンサーがただならない様子でニュースを伝えていた。そして何回も同じ言葉を繰り返していた。それは数少ない僕の知るフランス語の単語「プワゾン」毒という意味の言葉である。そして東京の風景が映し出されていた。

慌てて、少しは内容の把握できる英語のチャンネルに切り替えてみると、化学テロが行われたらしいということが伝えられていたが混乱状態でそれ以上のことはわからず、その翌日、成田からの帰路のバスの中で「ここで何か起こったらどうしよう」と考えて、とても心細かったのを憶えている。そして直後に起こった国松長官狙撃事件、その報が伝えられた時、父が「なにが起こっているんだ。日本は壊れるのか」と思わず叫んでいた。

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確かに昭和40年代も様々な事件が起こった。当時の自分は幼かったからその衝撃をわかっていたわけではない。それでも三菱重工ビル爆破テロでガラスが刺さり血まみれになった人の写真を新聞で見た時は衝撃を受けたし、浅間山荘事件もその時、それとは知らなかったが後から思えば祖母と一緒にテレビで見ていた。

しかし昭和という時代は混乱が起こってもそれを受け止める柱石とも言うべき人々が大勢いた。というより昭和戦後という時代は前線と銃後の違いはあれど戦中戦後の死線をくぐり抜けてきた人々が担っていた時代である。土壇場での性根の座り方というものであろうか。その重さが戦後世代に批判されていたわけだが一方で「戦争に比べればたいしたことがない、動じるな」そんな声が伝わってくるような頼もしさがあったのも事実である。

しかし歳月は人を待たない。平成最初の7年間でそれを知る世代の人は次々と引退していった。自分の身の回りでも僕が会社に入った頃、役員の半分は旧制高校、あるいは軍学校出身の方だったがその頃までにはその世代の方は全員引退していたし、昭和一桁の父もまた第二の職場へ移っていた。
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そして後に「失われた20年」と呼ばれる事になる停滞-それ自身は少し前から始まっていたが-を肌身に実感し始めたのもこの頃だった。


# by michikusajinsei | 2018-10-16 07:21 | 山陰本線 | Comments(2)