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昭和61年 加能越鉄道

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青天の霹靂

昭和49年、田中首相退陣の後継争いで当初員数合わせの候補とみられていた三木武夫が、逆点で後継総理の座に選ばれた瞬間に呟いたことで市民権を得た言葉だ。

正直、霹靂は日常の中で使う言葉ではない。おそらくその言葉を聞いた当時の人の多くも一瞬どんな意味って思ったんじゃなかろうか。

だが、そこは漢字という言葉の力、あるいはそれによって文化を受け継いできた我々の感性に訴える力故か、意味とか概念といった思考からではなく、その言葉を見た、あるいは聞いた瞬間にたちまちにしてそこに鮮烈な印象を思い浮かべることができる、そんな言葉の一つではなかったのではないか、それくらいこの言葉に与えられた漢字による視覚への刺激、鋭角的な響きの組み合わせによる語感の強さは圧倒的である。

ただその語感の強さ故か、日常的な驚きといった場面では使いづらくて人々の口吻に普段乗るような言葉ではないし、何よりも時代の流れに竿をさすと、漢籍由来の言葉の引用が衰え英語由来の言葉が多用される昨今の風潮もある。実際、僕も新聞記事などで目にすることはあっても人との会話の中でこの言葉が使われる場面に出会ったことはない。

その意味でもはや生きている言葉ではなく昭和49年の三木武夫という歴史的な瞬間を記憶する言葉になっているのかもしれない。

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「お前は出世しないなあ」
「.......確かに....そうですね、事実として」
「うーん、性格はさばけているし、考え方も柔軟で悪くないのに。この会社はお前を出世させたくないんだな。」
「そうなんですね。というか、やっぱりそうなんだ。まあ、それは仕方ないです。でも、それならば、その中で僕は自分のやりたいように仕事をしていくほか、ないですね。」
「まあ、そういうことだろうな。」

5月の半ば、ある先輩との会話である。

普段は人との会話をメモするようないやらしいことはまずしないが、この時ばかりは別で、屈折した表現ながら、この先輩に認められたことが嬉しくて帰宅してから手帳にそっとその記憶を残したのである。
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前回の話にでてきた先輩が社会人としての常識を教えてくれたとすれば、この先輩は社会人としての非常識、というとおかしいが、仕事ができればここまで羽目を外しても実は問題ないんだよってことを新卒入社の僕に教えてくれた先輩だ。

なにせこの先輩、始業は9時なのに出勤時刻は平然と毎日9時半、そしてよほどのことがない限り残業などせずに定時で帰宅してしまう。確かに制度としてフレックスタイムというのは当時からあったが前提として就業時間は働くものである。しかしそんなの関係ないとばかりの俺様勤務。

またその勤務時間中もおとなしく仕事だけをしているような殊勝さはない。抜群に絵が上手くて、不定期に職場新聞と称して同僚を漫画仕立てにして部内に回したりする。なかなか結婚できなかった別の先輩を題材にして「女日照りだよ、おっかさん。」なんてセリフで悲嘆にくれるその先輩を揶揄するような漫画を就業時間中に描いたりするのである。

さらに言えば、お酒を全く飲めないというアルコールアレルギー体質。従って飲み会は誘いも誘われもしない。体質だから仕方ないがこれも当時の酒で人の輪を繋いでいくのが当然みたいなサラリーマン社会では異端ではあった。

書いていて、まあよくぞここまで非常識を貫けるな、当時の課長も扱いに苦労したんだろうなあ、と思わず苦笑したくなる無軌道ぶりだが、しかし仕事は抜群にできた。

その仕事というのは顧客が呈示してきた契約書にしのばせられている自社にとって不都合な部分を見つけ出し、それへの対応策を策定するのが主な業務なのだが分厚い英文契約書をたちまちのうちに読み込み、不都合な事実を見つけ出して対策を立案するのに普通の人の半分の時間で済ますのである。そう、ある種、天才肌ともいえる芸風だった。

だからこんな野放図なことが許されていたとも言えるが、さすがに業績が悪化し自由の風が制限されだすとこの会社に居場所がなくなることを本人も感じたのだろう、あっさり転職してしまった。転職先ではさすがに外様扱いだったのだろう、生き延びるために猫をかぶって野放図さは封印、そうなると卓越した事務処理能力が目立ちまたそれが買われてそれなりの地位にいるらしい。

その先輩に地位ではなく仕事そのものの完成度で評価を得る一廉の職業人として認められたのが嬉しかったのである。
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その時から半月ほど過ぎたある日、上司の報告することがあって彼と部屋へ入った。淡々とその報告は済み了承を得たので、じゃあ、これで、と出ようとすると話したいことがあると言われ、もう一度、席に着く。そこで告げられたのは思ってもみなかった異動の打診だった。

思わずある冒頭の言葉が口をついてでた。

「それは.....青天の霹靂だ....。本気ですか。」歴史的な存在になろうとしている言葉をまさか自分が発することになるとは思いもよらなかった。

任されてやる仕事そのものどちらかに優劣があるわけではない。ただその時に担当していた仕事は課題として今の自分にとって職業人生を懸けて取り組もうと期していたし、それが自分にとってのこの会社で生きること、働く喜びと考えていた。その仕事を取り上げられることになったのである。無念である、その思いしかなかった。

しかし同時に、上司に対し無念の思いを吐露しながら人生とは思いもよらぬ出来事、しかし振り返ればそれへの暗示めいたことがままあること、ひと月前の先輩との会話を頭に浮かべながら、それが人生そのものであることにも思いを馳せてもいた。
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今回の写真群は昭和61年の夏に北陸を旅した時のものだ。

僕は美しい風景、光と空気が融合してもたらす輝き、大げさに言えばそんな瞬間との出会いを求めて日本を旅していた。

しかし、なぜかこの時、それとは全く逆の荒涼とした風景を記録している。いったい、どんな気持ちでこれらの風景を写し撮ったのか、今ではそれを思い出せない。

# by michikusajinsei | 2019-07-31 23:12 | Comments(0)

平成31年 ある週末の昼ごはん

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いきなりしみったれた話を書きますが、ひとりめし1,000円の壁というものが僕の心の中には存在します。

まあ実際に飲み会などに行けば、あっというまに5,000円を超えても抵抗なく割り勘に応じているくせになぜかひとりめしで1,000円を超えるといかに美味しそうでも躊躇ってしまいます。メニューを見て一瞬その料理に目を奪われながら、値段を見て唾を飲み込む....実に人間が小さい、心の中でそう自嘲しながら五目チャーハンを頼んでいたりする自分がいます。

そんな訳で長年、食べたいと思いながら果たせずにいる料理、別に珍味でもなんでもないですが、そういうものがいくつかあるんです。

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五目おこげ

これが僕にとって長年の宿題でしたが、人間50年、下天のうちにくらぶれば夢幻の如くなり、と言われることに実感が湧く52歳。自分が生きてきた時代も昭和どころか平成も終わろうとしています。宿題の一つとなっていたことを果たしてみようと思ってある週末の昼ごはん、最初から一択でこれが置いてあるお店(実は、前から気になっていてチェックだけはしてました。いつもは昼定だけなんですが。)に勢いをつけて入店し、メニューの他のメージは見ずにさっと注文。

いつもは定食に加えてビールなんかも注文するのですが(そうすると1,000円超ではないか、ということは言わないでください)、この日はサラダ記念日ならぬ自分にとっての五目おこげ記念日なんで雑念をいれたくなくて単品、これ一皿の注文です。

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そして待つほどなく運ばれてきた五目おこげ、自分の目の前でそれを見るのは実は初めて。なんと魅力的なツヤ、熱い餡をかける時に発したシズル音、たまりませんね。一瞬、深呼吸をしてその芳香を感じた後、やにわにおこげを崩して餡と一緒に口の中に運ぶ、硬と軟の対比と言えばいいのでしょうか。冷静に考えれば中華丼の材料は同じでご飯がこげて硬いだけなんですが、それだけなんですが、なんとその食感の違いが、そしておこげの芳香と微かな脂っ気がこれほどまでに味覚の違いをもたらしてくれるのか。

もう無我夢中、気がつけば5分もかからずに完食。あっけないと言えばあっけないですが食べ終わりました。

水を飲んで、また深呼吸。その時、僕を見る人がいれば少し遠い目をしていたかもしれませんね。今日、この料理をついに食べた自分と食べられなかった過去との距離を一瞬ですがその時々の記憶と共にたどっていましたから。

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29年前、会社に入り2ヶ月の研修を終えて配属された職場で、ある先輩がすぐに歓迎会を開いてくれました。それもその先輩のご自宅で、これから職場の仲間になる自分の同僚たちを一緒に呼んで、です。緊張している自分たち新入社員(もう一人、同期が同じ職場に配属されました)を休日のラフでリラックスした雰囲気の中、仕事以外の顔を見せることで職場に馴染ませようとしてくれたんだ、と今にして思えばその心遣いに感謝するばかりですが、ともかく、「大人の世界って、こういうこともあるんだ。」と驚きと、そういう世界に自分も足を踏み入れたという誇らしい気持ちが湧いてきたのをこれを書いていて思い出しました。

そのパーティーが和やかに進行している中、その先輩は別の部屋から一冊の漫画を持ってきて「これを読んだらいいよ。料理ってある意味、大人の教養みたいなもんだからね。」と言って差し出されたのは「美味しんぼ」という漫画でした。

その後の20代の僕はインドネシアとカタールという2つの国で合計2年半を過ごしたのですが、その両国での赴任期間、無聊を慰めるためによくこの漫画のページをめくったものです。そして当時も今も新鮮で印象に残るアフォリズムがその漫画の中に一つありました。「とんかつ慕情」という題の中の一節です。

「なあに、人間そんなに偉くなることはねえ。ちょうどいいってものがあらぁ。」
「いいかい、とんかかつをな、とんかつを何時でも喰えるくらいになりなよ。それ、人間、偉すぎもしない、貧乏すぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ。」

とんかつ定食は1,000円を少し越えるのが関東の相場、それを気兼ねなく心ゆくまで食べられる余裕が人生の醍醐味だよってことでしょうか。なんとも絶妙な人生の言葉というか人の心に響く至言です。同時に50を過ぎても未だ1,000円の壁なぞと言ってその境地に達しない我が身に忸怩たる気持ちを覚えないといえば嘘になりますが、一方で、平成という時代の土壇場、齢も50過ぎてようやくここまで来れたのか、そういう感慨も湧いてくるのは確かです。嗚呼、人生の味わいとはこんなところにもありますのかもしれません。

そんな自分自身の現在の心象風景はともかくとして、その後も、その先輩は何度もそのようなパーティーを催し、その度に尽きることのない話題と美食を僕たちに提供してくれました。30代と20代。互いの若さもありましたし、平成に元号が変わっても昭和、というか戦後の独特な会社全体が一つの家族という雰囲気がその頃はまだまだ残っていました。

しかし時の流れはそういった余裕を私たちに許してくれませんでした。平成という時代に起こった大きな変化、それはそういう会社という家族の解体の風景だったように思います。いや会社だけではないのかもしれません。その先にあった社会全体の一体感もでしょうか。実際、日本株式会社、あるいはK.K.ニッポンという言葉も聞かなくなって久しくなります。

今年もまた職場に新入社員を迎えました。もう僕の立場は彼らから見れば先輩ではなく上司ですし、年齢的にも親子と言ってもおかしくない歳の差があります。そんな立場から、今の先輩後輩関係を見ていると、いつの間にか親分子分のような昔ながらの関係が成り立っているようで、でもやっぱり彼らの人間関係は淡白です。毎晩、仕事を終えて飲み歩きそして休日も一緒に過ごす、もうこのような濃密な人間関係を好む時代ではなくなった、それは間違いない。実は僕はある時期から職場の人間関係はそうあるべきだと思うようになっていたのですが、いざそれが実現してみるとなんか寂しく感じる、つくづく人間って勝手なものです。

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その敬愛する先輩は、数年前、心不全で突然、世を去りました。甘えるばかりで遂にお礼の言葉を言えないまま、紫煙に包まれた笑顔の記憶を僕たち後輩に残して。

今の20代から見れば鬱陶しいとしか思えない関係かもしれませんが、そういう時間を過ごせたのは幸せな経験だった、時代が変わり自分もまた人との繋がりの中で喜怒哀楽それぞれを味わった30年という時間を経て、やはりそこに帰っていくのか、そんな風に僕は今を感じています。

記録に残るが記憶に残っていない鉄道情景、今回は昭和60年代ある日の関西本線風景です。


# by michikusajinsei | 2019-06-30 22:37 | 横浜 | Comments(0)

昭和62年 山陽本線

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大きな諦念と小さな挑戦

この何年か、いやもう少し長いか。今、52歳の自分が40代になった頃からであろうか、いつしか人生というものはそんなものではないか、そんな風に思うようになってきていた。

なにかきっかけがあってそう考えるようになった出来事があるわけではなく、日々の生活の中で自分と周りの関係、あるいは上司や先輩の動きを観察していて自然とそれを感じるようになった、ある面ではそういうところもあるし、一方で、そう思わなくては精神の平衡を保てないような苦しさが長期間続くような状況だったからだとも言える。

ただ、その思考の源流を自分なりにたどればやはり若い頃に出会った二つの言葉というか人生の先達が発したアフォリズムが通奏低音として僕自身の思考リズムの基調として底に流れていたからかもしれない。

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一つは高校3年、受験勉強一色に染め上げられた頃、ある英語教師の発した一言、
「君たちは人生の前に大きな希望が広がっているとか、未知の可能性があるとか言われているだろう、あれは嘘だからな。君たちのこれからの人生はまったく正反対、可能性というものを一つ一つ閉ざしていくことだからな。」

なにかイベントなり事件が起こって改めて発せられな言葉ではなく、日々の授業の何気ない雑談のような流れの中の淡々とした一言だったので、教室の中の空気が変わるということもなかったが、今、思い出しても高校生活の中で覚えている教師の教えといえばこれくらいだと言えるくらい自分にとっては強く印象に残る言葉だった。

その理由の一つは当時の自分の学力と興味の方向性から私立文系の大学しか行けそうもなく、それは別に悪いことでもなんでもないのだが、進学校といえる学校の雰囲気の中ではそれは一面、一番出来の悪い生徒の象徴でもある。言って見れば可能性を既にして閉ざされた状況でもあるし、またそんな少年なりの閉塞感を抱えた中にあったからこそそれが逆説的に人生の可能性を見出すような言葉のように思えて勇気付けられる、そう思ったからである。

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もう一つ、それはその少し前、小学校高学年か中学性の頃だったか。それはある雑誌を読んでいてその中で目に止まった言葉である。

その雑誌とは「暮しの手帖」その連載記事であった古谷綱正「私の映画日記」その連載の中で紹介されていたルキノヴィスコンティ監督晩年の作品「家族の肖像」その記事の中で引用されていたヴィスコンティ監督の言葉「私はこの作品にでてくる教授の存在を通じて我々の世代の敗北を描きたかった。」

もちろん、この文章を読んだときは世代なんて概念がわかるはずもない幼い頃だが、両親および母方の祖父母と同居し、また毎週のように父方の祖父母とも交流があった環境で育ったせいか、自分の生を超えた時代の匂い、というものを幼いなりに無意識に感じていたためであろうか、こんな言葉に出会い、そしてその意味を人生の中で折に触れ考えるようになったのである。

ただ、それは字面としてこれを理解しようとした、そういうわけではない。この言葉の背後に、ある一つの世代が辿った運命、あるいは担った時代とその潮流というものがあったのではないか、両親と祖父母、二つの世代の生き方と彼らが生活を営んだ時代背景というもの、自分にとってのそれらは果たしてどんなものか。

「激動の」という形容詞がついて回った昭和という時代を背負った世代に対して平成という時代の自分たちはどんな時代を演出するのか、そんな自問自答を社会に出て、その営みの現実を目にするにつれするようになったのである。

# by michikusajinsei | 2019-05-22 07:16 | Comments(4)

UK in 1988(その3)

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「ロックは死んだ」

セックスピストルズ、ジョニーロットンの言葉で、その人なりとこの言葉そのものがパンクムーブメントの象徴ですが、最初、この言葉を知っても意味がわかりませんでした。

前の投稿に書いた通り、僕の世代はポストパンクムーブメントの世代です。だから音楽の様式や表現としてパンクミュージックの存在感はありましたが、パンクムーブメントの登場の衝撃というものに立ち会っていないので、今にして思えば、それを経験していた世代とそこに温度差があったのかもしれません。
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自分にとってのロックミュージックは生きるとか死ぬといった批評の対象ではなく、目の前、あるいは過去のそれであっても自分の琴線に触れたもの、ただ、それだけでした。

曲そのものの好悪はもちろんありますが、ロックミュージックというものの価値を疑っていたわけではありません。

そして、その価値とは、煎じつめて言えば「素朴さ」であり「未熟さ」であるわけです。いや未熟さなんて書くと誤解を受けるかもしれませんね、普通は良い意味では使いませんから。
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でも、ある意味、未熟さという言葉に否定的な価値を与えているのは大人の価値観でしょう。その大人の価値観それ自体に対する反抗という観点から見れば未熟さそのものがロックミュージックの魅力であり、それが力であった、そんな風に思っていたのです。ところが。ある世代以上からみれば、それが「死んだ」と言われる。なぜ、そんな風に言われるのだろうか。

浴びるように音楽を聴きながらも折に触れそんなことが疑問としてわだかまりとなっていたのです。
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ただ一方で、自分が興味を持てる音楽とそうでないものは確かに別れてきました。

一番好きだったのはデビッドボウイ。前の投稿にも書きましたが、彼の紡ぎ出す音楽と言葉、その時々の多彩なサウンド風景、全てが神そのものでした。とりわけアルバムとしてのziggy Stardust、一つの曲としてのHeroes、それにDrive'In Saturdayはレコードで、あるいはウォークマンやカーステで何百回と聞いたか。

ただ彼を除けば、特定の歌手なりバンドなりに傾倒することはありませんでした。スプリングスティーンの明日なき暴走やフロイドのWish you were here、 Zeppの天国への階段、アズテックカメラのWalk out to Winter、あるいはスザンヌヴェガのルカといった曲をよく聞いていました。

スプリングスティーンやフロイドも当時は30代でしたから充分若いですが、聞いていた曲はさらに若い彼らが20代の頃に作った曲、アズカメやスザンヌベガはまさに当時20代、ロックとは自分にとって青春の音楽そのもの。彼らに共感することで絶対的な孤独感を覚えることもなく日々を送れていた、そんな気がします。

今から思えば気恥ずかしいですが、未熟ではあったけれど自分自身の世界観というものを形成しつつあった時期、同時に無闇に拡大していく自我を持て余していた時期、まさに青春の闇をさまよっていた心情に彼らの歌はどれほど寄り添ってくれたか。彼らの音楽は当時の自分にとって救いそのものでした。

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しかし、そんな時代から30年が経ち振り返ってみると、確かにロックの原風景とも言える音楽を聴くことで、そこにロックミュージックの魅力を見出していましたが、其の頃からロックが青春の音楽ではなくなってきたのではないか、そんな気がしないでもありません。

高校1年でしたか、当時毎週買って愛読していた雑誌にFM Stationにローリングストーンズ結成20年特集というものがありました。そもそもロックに歴史があるんだと気がついたのはこの特集なのですが、ローリングストーンズといえば酒と薔薇と薬の日々、ロックミュージシャンの象徴的存在ですが、そんな彼らが結成20年、そして年齢も40歳「へー、ロックミュージシャンって言っても結構歳とっているんだな。」10代から見れば40歳なんて中年の象徴みたいな年齢、思わずそんな感想が湧いてきたのを今でも覚えています。

そしてその感想、というよりもっと漠然とした直感というか、自分がロックミュージックだと思っているものとの違和感がそこにあったわけです。
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そしてその違和感とは何か、その時は単なる世代の違いかと片付けてしまったわけですが、子供と大人の違い、あるいは素人と玄人、あけすけに言えばビジネスの匂いですが、今にして思えばそれが違和感であったんだと思うのです。

しかし現実のロックミュージックはそういったある意味、未熟さが許される世界ではなくなっていた。そして、それは僕が彼らの音楽をリアルに聞いていた80年代よりはるか前に始まっていたのですが、それがいよいよ本格化し、大人の世界が前面に出るようになってきた時代、どのように思います。

もちろん、それが悪いことではありません。ただ、そこに明らかい大人と子供の違いが露わになってきた、そしてその違いとは端的に言えば時間の感覚と社会的な存在感、でしょうか。

当事者の音楽、今から思えば僕がロックミュージックに求めていたものはこれでした。

ギリギリのラブソング、そういうとかっこいいかもしれません。かといってただの欲求不満という言葉で片付けるにはもう少し切実さがあった。自分を受け入れてくれる誰か。あるいは世の中がどこかにあるのではないか。そしてその世界への続く道がどこかにある、そしてその道へと導く灯火、今、52歳の僕がこんなことを書くと気恥ずかしくなってしまいますが、10代後半から20代前半にかけて僕の琴線に触れた音楽はこれだったのではないか。その日から30年以上経ってしまいましたがようやくそれがわかった気がします。

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そしてロックミュージックが体現していた青春的な音楽、それはここに真髄があったのではないでしょうか。

「明日なき暴走」にしても「Wish You were here」にしても、たくさん売れた曲で、彼らの代表曲の一つですし、発表するからにはそりゃ当人たちは売りたいし売れてほしいと思ったでしょうが、マーケティングをしてこれらの曲を作ったわけではないでしょう。というより逆ではないでしょうか。自分の衝動的な気持ちを叩きつけたようなこれらの曲は独りよがりではあるけど、まさに当事者じゃなきゃ作れない切実さに溢れています。

仕事とはつまるところ、何かを予測してそれに向けて時間を振り分けることだと言えなくもありません。そのスパンが週単位、月単位、それぞれの目標に応じてあるわけですがかなり明確な目標の達成のために時間を意識します。また社会的な存在感、これは言うまでもないでしょう。その二つの達成度合いに応じてついてくる社会的信用、ブランド、それを守ることの重さ、大きさの違い、あるいはそれを追求する手練手管、大人と青年の分かれめは、そういった世界に身を投じることを割り切って受容できるか否かではないでしょうか。

その大人社会への違和感を表明することで社会的な存在感を増してきたロックミュージックが、正にその大人的な価値観に取り込まれ、ひとつのブランドとして完成された時期、それが80年代であり、その象徴がライブエイドである、そんな風に言えると思います。ロックミュージックの社会的影響力を利用して政治的な問題であったアフリカの飢餓を救う、正に大人社会の論理そのもののイベントですから。その意味で確かに「ロックは死んだ」そういうセリフが出てくるのはある意味必然だったのかもしれません。

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そんな時代からさらに30年以上経ちました。

デビッドボウイは亡くなり、ミックジャガーは勲章を授けられました。もうロックミュージックは若さの象徴ではなくはっきりと老いを意識する時代へと変化してきています。聞いていた当時はまさかそんな時代が来るとは思いもよりませんでしたが、結局、ロックミュージックの体現していた世界観もまた永遠の存在ではなく一つの時代のアイコンであった、そのそんな風に総括できるかもしれません。

しかし、「死者は雄弁なり」そんな言葉もあります。

私たちは、時にそういった時代の変化の中でも、ある時間が永遠であることを感じる瞬間があり、またこの言葉を実感する人たちがいます。

フレディーマーキュリー、この時、バンド加入から15年、そして39歳。

15年という年月はクイーンというバンドと彼自身が存在感を増していく過程であり、並行してビジネスとしての自分たちをどういう風にマネジメントしていくかという姿が描かれていました。そう紛れも無く大人の世界の風景です。

一方でこのボヘミアンラプソディーという映画を見ていて最も泣ける瞬間、それはライブエイド直前の二つのシーン、フレディーマーキュリーがエイズであることをバンドメンバーに告白し、ビジネスパートナーではなく同志的な友情を再確認する場面、それと長年にわたり心情的確執があった父親との和解の場面です。友人関係、親子関係、ある意味、この二つはビジネス以前の世界、素の自分に共感してくれたり赦してくれたりする関係、ある意味、少年時代の風景であり、この時の彼にはその二つが失われずに残っていたわけです。

この2面性が、このときのロックミュージックに立ち位置そのものと言ったら言い過ぎでしょうか。そして時代の流れは当然後者に対して容赦ない。友人も親子も10代の人間関係はいつまでも維持することができません。それはいつの日か前者の大人の社会に呑まれていきます。それは個人だけではなく社会的な存在としてのロックミュージックも避けることはできませんでした。

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クイーンがライブエイドの会場であるウェンブリーの舞台に姿を現した時、陽の長い英国ではまだ昼の明るさが残っていました。そして彼らがその舞台を去るときには、陽も暮れかかり闇が迫ろうとしていましいた。

ロックミュージックが青春の衝動的な若書きの音楽である時代の終焉を象徴するかのような日が没した薄暮の中で彼らが最後に歌った曲、それは「We are the Champion」王者は傷ついても闘い続ける限り永遠に王者であるという歌です。王者交代を予感しつつもなおまだ闘い続けなければならないという歌詞。この歌こそ、正にこの瞬間に彼らによって奏でられるべき曲として相応しいものは他にありません。そして歌い終わった彼らの退場とともにひとつの時代の幕もまた閉じていきました、

ライブエイドは、そういった意味でロックミュージック青春時代への挽歌であり、またその時代の中で担った役割を終えたことへの有終の美をそれとは知らせずにクイーンに託して飾らせた、そんなイベントでもあった、そんなように今では思えるのです。

本日は平成最後の日です。

この日に何を書くか念頭に置いて日々を送っていたわけではありませんでした。年が明けて評判に誘われてみた「ボヘミアンラプソディー」の感動とその感動により呼び戻された自らの青春時代の感覚をゆっくりと思い出しながら、その時代へのレクイエムを書くような気分で書き連ねた結果、この日にそれを書き上げることができたことの偶然の一致に自分でも驚きます。

平成の30年は自分にとっても我が身から青春という時代が去っていった時間でもありました。その最後の日にこれを書き上げたことで、自分にとっての青春時代に忘れていった宿題のひとつに決着をつけることができたことに、ホッとしたような、けれども少し寂しいようなそんな複雑な気分を感じていますね。


# by michikusajinsei | 2019-04-30 18:36 | UK | Comments(2)

UK in 1988 (その2)

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このライブエイドより少し前、デビットボウイが「レッツダンス」というアルバムを発表しました。

この楽曲自体には特に好きも嫌いも感じなかったのですが、自分が影響を受けていた渋谷陽一が自らが主宰している雑誌にこのアルバムの発表を受けて書いた記事「青春の終わりとロックの始まり」この記事というか論考には大きなショックを受けたのを今でも覚えています。
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今、その雑誌自体は手許にないので印象だけで内容を思い出しているのですが「ロックミュージックというものはある種、青春時代の象徴のように扱われてきた音楽だ。青春時代とは自分自身をうまくコントロールできなくて、そしてこうあるべしという世界観を大人たちから押し付けられてそれに抗っている時代、そういったと世界との違和感、あるいはその大人社会との折り合いのつかない自分の存在証明を表現していたのがこれまでのロックミュージック。

しかし時代は変わった。ロックミュージックもポピュラーミュージックの一分野。まず売れるのが第一、これからのロックミュージックはある世代の代弁者みたいな存在や少数派であることの逆説的な優越感から脱しポップミュージックの王道としてより幅広く受けいられることの方向を目指すべきだ。」

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はっきり言ってこの言説は失望と戸惑い以外の何物でもありませんでした。

レッツダンスの発表が1983年4月、僕が高校2年になったばかりのころです。まさに青春時代のとば口にたち、世界の広さを感じ始めた一方で芽生え始めてきた自我を持て余し感情の浮き沈みが激しく、そんな自分自身の葛藤に寄り添ったのがロックミュージック。

ブルーススプリングスティーンの出世作、「明日なき暴走」、原題は"Born To Run"ですからほとんど反対のような邦題の気がしましたが、図らずも原題と邦題でそのギャップが露呈しているこの曲が典型だと思うのですが、絶望と希望の二面性、死とそこからの再生を疾走感のある音楽の乗せて表現されている、それが僕にとってのロックミュージック、でした。

書いていて少し当時の気持ちを思い出してきましたが、ギリギリの切迫感とでも言うのでしょうか、今から見れば幼稚ですけど当時の自分的にはどこに出口があるのかまったくわからない。彷徨の中でどこか明かりが見えないか、その明かりの見えるところに連れて行ってくれるかもしれない、そう思って聞いていたのです。
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そんな気持ちで浴びるように様々なアーチストの曲を聴いていた時に「ロックミュージックっていったって、所詮は大衆向け音楽の一分野、いかに自分が独自の世界を持っているって歌ったって、売れなきゃ目立たない。その意味でやはり売れてなんぼの世界だよ。」と書かれたのですからたまりません。NHK FMでの彼が紹介するロックミュージシャンは気に入ったものが多かったし、その軽妙な語り口自体には魅了されていましたけど、その頃のロックミュージックは特別なものと思っていましたし、ある意味、人生そのものとまで感じていました。

特にこの記事がきっかけで興味を覚えたデビッドボウイの世界、その音楽と詩は当時の自分にとって(彼のある歌の中にもそのような表現がありましたが)神そのものでした

# by michikusajinsei | 2019-03-24 09:13 | UK | Comments(0)