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令和4年 謹賀新年

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みなさま、あけましておめでとうございます。

昨年の挨拶にて50代半ばにして転職すること、そしてそこに至った心境と決意について書いていました。そして、それから1年、お陰様で新職場での生活は大きな障害もなく過ごしており、更に1年、雇用契約を更新しました。実際のところ、昨年、このブログで年始の所感を書いていた頃はかなりの緊張感に包まれていたのですが、仕事環境という面では久しぶりに落ち着いた気持ちで年の瀬を送っていました。

一方で、自分の身の回りのことではある重要な決断をした年末でもありました。その決断は自分自身だけではなく他の人も関係する話ですし現在進行形でもあるのでここでその内容を書くわけにはいかないですが、少なくとも自分自身にとっては人生のある部分に決着をつけるとても大きな出来事でした。

そういった年始と年末の間、僕は何を考えて生きていたか、一つは東京オリンピック、もう一つは身体と心の不可分さについてであったように、今から振り返ると総括できます。

このブログ、昨年一年間はほとんど更新していません。その理由のほとんどは疲労を言い訳にした怠惰心ではありますが、何度も書いては破棄を繰り返してるテーマがあり、それが東京オリンピックをめぐる個人的な思い、なのです。自分にとってこれもまた自分史の中で書き留めておきたいことがあるのですが、それがうまくまとまらずにいることも一因ではあります。これについては持ち越しですね。機会的にはすっかり陳腐化してしまいますが、僕自身の心情の移ろいの記録としてまとめたいという気持ちなのです。

さて、それはともかく昨年の自分にとって大きかったのは、自分自身にとっての身体の発見でした。

リアルに僕を知る人はご存知のように僕は喘息という持病があります。喘息という病気は完治ということはなく薬でコントロールして小康状態を継続していくのが治療法なのですが、昨年の春先に小康状態からの悪化が続き主治医からちょっと手に負えないので専門病院に行った方が良いと言われたのです。これは相当なショックでした。暫く鬱屈した感情の中で日々を送っていたのですが、悪化が現状の反映ならその現状を何か変えなくては駄目ではないか、そんな気持ちと、その少し前に通りがかったスポーツショップに飾ってあったジョギングシューズの格好良さがシンクロ(ちなみにonというブランドです)、走ってみることにしました。ゴールデンウィーク中、5月1日でした。

最初は全く走れませんでしたね。すぐに息が上がり予定していたルートの1/3程度です。それでも5m、10m、連日伸ばせる週もあれば、全くと言っていいほど足が上がらなくなる週もありましたが少しづつ走れる距離を伸ばしていきました。そして1ヶ月半くらい経った頃、ついに最初に考えていた走行ルートを完走する事ができたのです。これは嬉しかった。達成感もありましたし、呼吸も改善してきたのが自分でもわかってきたからです。そして今も走り続けています。季節は巡り、今はちょっと寒い(苦笑)ですが、それでも止める事なく毎朝、走り続けています。

その走りの中で健康を取り戻すと共に改めて発見したのは、身体と心の関係性です。走ることで期待したのは喘息悪化の歯止めでした。これは治療の効果を思い描いていたというか何か変えなきゃっていう思いからの挑戦でしたのでそれほど期待していたわけではないですが、走り始めてから目に見えて改善していました。指標となる数値も安定、元の小康状態に戻り再び主治医の元に戻ってこれた時は本当に嬉しかったです。

また取り戻せたのは健康だけではありません。もう一つ大事なものを取り戻せました。それは思考の開放、そういうと大袈裟ですが要は取り止めもない妄想や浮かんでは消え、消えては浮かぶ断片的な思いつきといったものを転がして遊ぶ楽しさ、です。

走り切れるようになるまで、頭というか身体はその目標で精一杯、何も考えられません。目の前を流れる景色とその先に自分自身が定めた目標まで走ろうという意識しかありません。しかし、その一歩一歩のための目標が消え、走る事が自然な状況になった時、戻ってきたのはそういった頭の中をとりとめもなく流れる思考の断面、呟きでした。

思えば、この数年間、これを忘れていました。自分の身辺で起こっていたことやコロナ禍での閉塞感といったものに追われ、知らず知らずのうちに自分にとって最も楽しく大切な時間の一つを封印していた、それが走る事で身体の中の澱が流されたのでしょうか。再び、その楽しさを味わえるようになったのです。走りながら浮かんでくること、今日の昼飯は何しよう、といったこともあれば、突拍子もなく地球のエネルギーは結局、大気と海流の循環の源たる太陽エネルギーの熱量と地球内部の熱量の中で変成していく鉱物エネルギーという地学的な時間の中で生み出されているんだといった考えが浮かぶ事もあります。そういった直感を遊ばせる楽しさを再び取り戻す事ができたのは大きな収穫でした。

この一連の自分自身の活性化、それは身体が先か心が先かでいえば、間違いなく身体です。身体を動かずことで心肺機能が高まり錆び付いていた身体的能力が復活、合わせて血行がよくなることで思考もまた活性化、そして走り切った後、全身の力が抜けて横たわっている時に感じる頭と身体が空っぽになり渾然一体となるような感覚。そういった身体と心の動きを実感できたことが去年で一番、いや人生で最大の発見の一つだった、そういう風に思っているのです。

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そして、今年一年です。

冒頭に書いたように、ある決断とそれに共なう行動が今の自分にとって最大の関心事ですし今後の生き方にも大きな影響を及ぼすものです。しかし今まで自分自身が送ってきた人生を少し俯瞰してみると12年周期で神の見えざる手が働いていたように思えなくもありません。具体的にはシンガポール生活が始まり、帰国後も仕事の上で最も脂の乗った壮年期とも言えた12年間が昨年終わりました。充実と少しの後悔、それと共に周りの人々と様々な喜怒哀楽を味わった12年間でした。喜怒哀楽と書いた通り、必ずしも喜びの感情だけではありませんが、振り返ってみれば、それもまた人生というもの。どんな形であれ僕自身の人生に関わり鍛えていただいたことへの感謝は尽きないものがあります。

その意味で今年はまた新たな人生の旅路が始まりを見せる年だと感じています。この新たに始まる人生行路の中では、今ある関係の発展も、新たな出会いも、そして旧交が復活することも全てあると思います。その中で自分自身、2回目の人生へと完全に入っていくこの12年最初の年、今まで以上に動くことを意識して日々を送っていきたいと考えております。

そういった思いの中で今年の年頭に掲げる写真として選んだのは1988年冬のヨーロッパ、南フランスとスペインバスク地方の風景です。いずれも撮った時は絵画的な描写を頭に描いていたわけではありませんが、忘れた頃にスキャンしてみると現実と絵画が入り混じったような幻想的な出来栄えとなりました。特に霧に浮かぶ村の情景は夢幻のような景色、果たして実在した村なのか撮影した自分自身も今となっては場所を思い出せないのですが、フランスに長く住む人の話ですと、南フランスにはこの写真のように下から霧が湧き上がり景色が浮かび上がるように見えることはたまにあるそうです。

それはともかく、この2枚の写真、霧には覆われていますがさりとてものの形は失われておらず薄明の中に佇んでいる趣があります。そう、これから形作ろうとしているものはまだぼんやりとてしている、けれども決して闇の中にいるわけではなく光は差し込んでいる、それはまるで次の年代で自分自身が関わっていくことの具現化に向けて進んでいく心境の反映とも言える情景、変化の胎動を象徴するものとして選んでみました。

改めて今年一年、皆様のご健康、ご健勝をお祈りするとともに、一層のご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。

道草人生拝



# by michikusajinsei | 2022-01-02 11:38 | フランス | Comments(2)

昭和57年 青梅線

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しばらくブログから遠ざかっていましたが、そろそろ何か書きたくなってきました。

手始めに最近見た映画の感想など。

「科捜研の女-劇場版」
これは沢口靖子が主演なので見に行きました。昔から好きなんです。どれくらい昔からというと彼女がデビューした時、僕は高校3年生でしたが確か深夜帯の何かの番組で「今日がテレビ出演2回目なんですよね。」と質問された時に見せた初々しい笑顔にいっぺんに魅了されました。37年前になります。でも正直、若い頃はドラマを見ることは少なかったんでまともに見ているのは、実はこの2年間の科捜研の女だけという、ものぐさファンですが、だからやっぱり映画で公開となると見にいかねばならないでしょう。という気持ちで見に行きました。中身は、まああれですね。微妙な言い方をすればテレビ作品向けの題材だなという感想。映画料金はお布施と思って自分の心を納得させました。

「SWANEE-野毛探偵事務所」
横浜にある藤棚商店街という古い商店街があります。僕は自宅からは少し離れていますが、この商店街の雰囲気が好きでたまに出かけるのですがこの商店街に日本一小さいを標榜する映画館があります。その名前は「シネマヴィチェント」、その映画館もロケに協力していることと、主演が最近お気に入りのデビッド伊東ということで見に行きました。

さて、横浜下町には港町特有の独特なアブナイ雰囲気があります。古典的な作品ですと黒澤監督の「天国と地獄」がその代表。まあ、それは別格にしても昔から何度となく舞台に選ばれる雰囲気がある。そして、僕の世代では林海象監督の傑作「私立探偵濱マイク」シリーズが何といってもその代表ですし、この映画もそれにインスパイヤされていると思われますが映画としての完成度はだいぶ差があり、一言で言えば脚本の弱さ、ストーリーと人物の造詣力が膨らみが足りないというところでしょうか。

でも、映画は傑作じゃなければ価値がないなんて決して思いません。プログラムピクチャーの味とは垢抜けないところや、出てくる俳優陣の演技力を楽しむのが吉と思ってます。その意味で、この映画は主演デビッド伊東の演技力が炸裂して、その意味では個人的には満足感が高い作品でした。

ちなみにデビッド伊東は探偵濱マイクの主演である永瀬正敏と同じ歳、そしてまた僕も彼らと同じ歳です。スクリーンで躍動するデビッド伊東の雰囲気を味わいながら、濱マイクの25年後の姿を今、撮るとどうなるんだろう、そしてまた自分のこの25年間の生き方はどうだったのか、そんな思いをダブらせながら見ていたりしました。なおシネマヴィチェントは出てきますが事務所があるわけではありません。事務所があるのは野毛の有名な老舗ジャズ喫茶店「ちぐさ」、映画の題名はそこに由来しています。

「キネマの神様」
山田洋次監督の最新作、主演を予定されていた志村けんがコロナで亡くなり、沢田研二が代役を担って完成に漕ぎ着けたと言われる作品です。巷間、沢田研二の演技が下手すぎと言われていますが、僕は志村けんさんには失礼ですが、沢田研二の方がこの映画のモチーフには合っているな、と感じました。どうしてかと問われれば、志村けんの場合だと、若い頃は女優にも惚れられるような色男が挫折感から身を持ち崩して衰えているという設定の主人公の雰囲気に、彼が醸し出す真面目さが合わないと思うんです。比べると現実に若い頃は色男で70を越えてそれが見る影もない体型の変化で主人公の今を象徴できる沢田研二の方が似合っているように思えたからです。

それはそうと、やはりこの映画は山田監督にしか撮れない映画、旧作日本映画のオマージュと雰囲気をまさに松竹大船全盛期の空気を吸っているからこそ描ける作品だと思います。清水宏と小津安二郎を嘘くさくなくというかぎこちなさなく自然に登場させることができたり、北川景子に東京物語の原節子の雰囲気を纏わせる(ただ見た目的には原節子というより香川京子でしたが)演出を直球でできるのも、全盛期の松竹大船撮影所の雰囲気を知る山田監督ならではの持ち味ですね。同時にダメ亭主でありながら、それに頼ってしまう母親世代と、失業の不安にさらされながらも自立してシングルマザーとしてもがく娘世代の対比、そしてダメ亭主が最後の最後にオタクな孫と共同で若き日に完成に持ち込めなかった脚本を再構成し成功するストーリーは同時代の社会風景に目配りを欠かさない山田監督らしさが出ていると思います。

ただ正直な話、この作品は時代を超えて語り継がれるかというとそこまでの作品ではないでしょう。とはいえ「科捜研の女」が良し悪しではなくテレビドラマという枠内での輝きが映画に反映されないのとは逆で、この作品はやはりテレビドラマでは作り得ず、映画という様式でこそ実現できる物語であると思います。

この映画を見たのは朝イチの回、横浜駅に新しくできたT・ジョイ横浜だったのですが、観終わってそのまま東海道線に乗って大船撮影所の跡地に思わず行ってしまいました。撮影所のあった場所には今、イトーヨーカドーが営業しており撮影所の名残は全くありません。けれどもそれを背にして大船駅の方へと向かうと何だか自分が撮影所の人間になったような感情を抱かせる、この映画にはそういう人を酔わせる力が残っていました。

ちなみに冒頭の写真は青梅線であることは間違い無いですが、どこで撮ったかは今となっては判然としません。高校1年、鉄道撮影のために遠出ができるようになった最初の頃の撮影です。

# by michikusajinsei | 2021-10-31 12:02 | 首都圏 貨物列車 | Comments(5)

1988年 BARCERONA (その5)

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昭和21-26年、昭和27-32年、昭和33-38年、昭和39-44年、昭和45-50年、昭和51-56年、昭和57-62年

以前の記事で一言書いたことがあるのだが、僕は日本の近代は明治元年以降、6年毎で一つの世代とくくれるのではないか、との仮説を持っている。これは指を折ってもらえれば誰でも可能だが、試みに馴染みの深い昭和戦後を挙げてみた。そしてこう並べた年代を眺めると40代以上の人間はなんとなく僕が感じたことが判っていただけるのではないかと思う。

もちろん6年はそれなりの長さになるので最初と最後では時代の風景も変容を見せるのは当然だが、それでも振り返ると時代の潮目というのはそれなりの長さが続くのもまた事実である。特に感受性と社会性がせめぎ合う20歳という瞬間でその年代が過ごした時間をそれぞれ見てみるとより世代の特徴が鮮明になってくるのではないか。例えば最初の世代は高度経済成長を実感した時間であるし、その次の世代はオイルショック下の経済減速。戦後3番目の世代はジャパンアズナンバーワンという響きが現実味を持って語られ始めた時代にその時間を過ごしている。そして自分が属する世代、これはもうバブルの一言となるだろう。その次はオウムと阪神大震災によって昭和的価値観の黄昏を目の当たりにし、次の世代は金融危機とジャパンパッシングと言われ日本の存在感が揺るぎ始めた時代、そして最後は中華爆食と言われ中共の台頭をはっきりと感じ始めた時間。

確かに人それぞれ個人としては育った環境は違うが、人格形成の最終期にそれぞれの時代の息吹きに触れることで世代としての共通の潜在意識というか特有の感覚を持つことは、それに肯定的か否定的かの違いはあるかもしれないが、僕は間違いなく存在すると思っている。

ただ、この世代論はもう少し時代の遠近感を持って語りたい気も実はしている。

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冒頭に日本の近代は明治元年以後、と書いたが、近代はもう一つ大きな断面がある。そう、言うまでもなく大東亜戦争終結前後である。この二つの時間を並行して語ることで何か別の世代の風景が見えてくるのではないか、そんな想像を広げてみたくなる誘惑もあるのだ。

明治日本の輝かしい成果は日露戦役の勝利、これであることは誰も異論がない。この戦争は明治37年から38年にかけて行われたが、その瞬間に20歳という年齢に達していたのは明治18年生まれまで。そして、またこの世代まではほぼ江戸生まれの両親によって育てられた言わば「江戸の遺児」ともいうべき世代である。そしてその年限は偶然ながら上に書いたように昭和戦後の時代区分とも一致する。第三世代、昭和38年生まれまで。そしてこの世代の両親は戦中派、兵役もしくは勤労動員によって戦争と大日本帝国の記憶を強く持つ世代によって育てられている。

一方、明治19年以降の世代、これはそろそろ江戸の記憶がない世代が親となり始める時期であるし、また政治制度としても維新期からの訣別を象徴するかの如く明治18年の年末に内閣制度が創設され、その4年後に議会が開設された。正に帝国の基本構造が完成しつつある時期であり、この時代以降の世代は大きく括れば「江戸の遺児」に対して「帝国の子供たち」とも呼ぶべき存在になるかと思う。

そして戦後と呼ばれる時代はそれをなぞるかのように、昭和39年生まれ以降の世代から戦争或いは戦後を実感として語れる親は消えていき、また時代の風景としても戦後世界からの卒業ともいうべき東京オリンピックがその年に行われた。そしてピンポイントのこの世代である自分たちは正に明治19年の世代が20歳の頃に味わった日露戦役の勝利感が維新回天の頂点だったように、バブルという戦後日本の頂点ともいうべき時代風景に20歳で遭遇することになったのである。

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ここまで書いてきたのは20歳という年齢である世代が出会った時代の風景という話だったが、20歳という人生時間を世代という感覚の象徴としたのは、その時期を過ぎると世代という感覚での繋がりや意識の共有が急速に薄れていき、個々人の生活、或いは属している社会への帰属意識の方が高くなる。ある意味、時代から離れ自分自身の生活の流れに追いつくのが精一杯になってしまう。しかし、人生と社会の交差点はもう一度やってくる。それは50代。その年代に踏み入れた時、個人としての自分の立ち位置を問わずしてその築いた社会という帰結については、また再び世代としての責任を問いかけられているように思うからだ。

世代という感覚を一旦封印した個人がその後、どんな思いを抱いて日々を送り社会を築き、もう一度、社会と世代として向き合うことになったか、その時の心象風景はどんな世界か、今、それを問われる世代の一人として自分の実感を項を改めて書いてみたい。

# by michikusajinsei | 2021-05-11 21:52 | スペイン | Comments(0)

令和3年 謹賀新年

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令和3年の幕が開きました。

世間はコロナ禍、落ち着かない日々が続いています。ですが、まずこれを書いている自分、そして読んでくれる方々が今日この日を生きているということ、そのことを何よりも寿ぎたいと思います。

さて、このブログを書き始めたのは今から7年前の12月ですが、その初期の頃、僕は「無常」と言う感覚について書いています。https://anosyaryo.exblog.jp/20559927/

去年の暮れ、年の瀬を迎えて僕は改めてこの言葉に思い起こしておりました。もちろん、それはコロナ禍が世の中にもたらした断絶とそれに伴う世情の変わりように伴うものですが、実はもっと大きなことがあったからです。

昨年、12月31日付で僕は勤めていた会社を退職しました。平成2年4月1日から30年9ヶ月の旅路の果て、です。

「50代は2回目の人生への成長期であってもまだ1回目の人生が続いています。実際、この僕自身も昨年は思いもよらないことが職場で起こり1回目の人生においては晩年という言葉を意識した苦い瞬間がありました。その意味できちんと1回目の人生に落とし前をつけるべき晩年も同時に追及していかなければならないな、そんな考えからあえて残照の風景を年頭の一枚に選んだのです。」

今年の年始の挨拶を書くにあたり昨年のそれを読み返したときに僕はこう書いていました。マニュフェストめいた文章にはなっていますが、この時点で会社を辞めることを意識していたわけではありませんでした。どちらかというと2回目の人生という考え方をどう昇華していくかに関心があったんだと思います。しかし、現実に生きていく中で優先されるのは、ぼんやりとした目的ではなく自分の目の前の仕事にどう向き合うか、です。

53歳という年齢は熱意の湧かない仕事を定年までの中継ぎと割り切るには若すぎですし、一方、それを将来の自身の成長へ向けた修行であると通過地点の一つとして思い直すには歳を取りすぎている。少なくとも1回目の人生の中では。少し先の人生を見据えたとき、そう考えました。

いや、それは理屈で帰納的に出したというより、感覚的に自分の人生航路において均衡が崩れた瞬間に思えたという方が正確かもしれません。同時に正に今のこの瞬間こそ1回目の人生に決着をつける機会が訪れたのではないか、そういった直感的が考えが心の中に湧いてきたのです。

そしてそうした思いが芽生えた以上、行動に迷いはありませんでした。年の初めには考えもしなかった転職活動を緊急事態宣言が解除された時期から開始し、最終的に年末をもって退職するに至ったのです。正に無常、去る年を振り返ってみて、この言葉の他に言うべきものはありません。

閑話休題になりますが、かつてベルギーにウーゴ・ブロースというサッカー選手がいました。今から35年前、メキシコW杯準々決勝、スペインとの一戦は2-2のまま延長でも決着がつかずPK戦にもつれ込みました。当初、監督のギー・ツイスが選んだ中に彼の名前はありませんでした。しかし選ばれた選手の一人が負傷を理由に辞退したとき彼はツイス監督に近づきこう話したそうです。

「監督、あなたが私のキックの正確性に懸念を持っているのは判っている。しかし私は33歳だ。ここは私に任せてくれないか。」準決勝進出が掛かっている中、誰をキッカーに選ぶか監督も選手も計り知れない重圧にいる中での発言、なんと歴戦の勇士たるものよ、本当の大人とはこういうものかとその言葉に接した時の印象は今も鮮やかです。そして彼のPKは成功しましたしベルギーは勝ち残って準決勝へ進出しました。

50代での転職はいわば人生のPK戦に臨むキッカーのようなものなのかもしれません。試合中のミスであれば残り時間でそれを帳消しにすることができるかもしれません、あるいは仲間がそのピンチを救ってくれるかもしれないですがPK戦は蹴ったボールが入るか否か、です。50代の転職も同じです。選手一人の力だけ、そしてそれを決めて当然という雰囲気の中での勝負になります。

転職するにあたりもちろん自分の能力を恃む自負は当然あります。というかそれが無ければそもそも自発的に転職など思いつかない。そうなると、恃むところは能力そのものではなく、外すかもしれないという不安感による迷いをどう克服するかではないか、そしてその気持ちの強さに想いを巡らしていく中で35年前の彼の言葉が蘇ってきたのです。かくありたいと。

今年の頭に選んだ写真は昭和62年の釧路湿原、その大地を飛翔する丹頂鶴です。千年の長命を得て飛翔を続ける伝説を持つ鶴。その鶴にあやかって新たな自分自身の旅立ちを鼓舞したい、そんな思いからこの写真を選択しました。

今年一年、皆様のご健康、ご健勝をお祈りするとともに、より一層のご指導ご鞭撻の程、お願いいたします。

道草人生拝







# by michikusajinsei | 2021-01-01 23:13 | 北海道 | Comments(4)

Paris in 1988(その3)

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30年前の今日、東西のドイツが統一された。

もちろん僕はドイツ人でないし、なにかそこに利害関係があったわけでもない。
でも、あの瞬間の高陽、あれは覚えている。

閉塞と圧政の象徴だった壁が崩され、そしてありえないと思っていた鉄の規律で統御された全体主義国家が崩壊した。

そんなことを誰も言っていないが、あの瞬間は僕たちにとっての戦勝体験だった。なにも教室で教わらなかったけど、いつしか自分足しは「西側」と呼ばれる世界に属し、その世界の価値観を当然のこととして受容していた。対する東側の価値観を体現しているのが東独。その国が内部から崩壊して僕たちが共有している価値観が正しい世界に吸収された、そう感じたものだった。今から見ればそれはそれで少し苦味の混じる結論だったんだけど


でもそれは後日譚。あの開放感と陶酔感、それはバブルの凱歌をあげていた当時の日本の雰囲気とも合奏した面もあるけど、世界にあった壁はもうなくなった、さあ、これから自分たちの羽ばたくフィールドは無限に広がっていくんだ、そう感じていた。

この写真はその直前、パリでみた風景。キザと言われるかもしれないけど、その頃は全体主義への恐怖というものを幼い感性とはいえ持っていた。今はのほほんと過ごしているけど、この写真が出来上がったとき、平和を希求する冷戦下、そしてその営みが現実の政治の前にはとても孤独であった西欧世界の象徴のように感じた記憶がある一枚である。

# by michikusajinsei | 2020-10-03 22:13 | フランス | Comments(0)