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昭和57年 & 62年 東海道線

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先週、北陸新幹線が敦賀まで延伸開業しましたね。

新幹線の歴史はある意味、在来線との共存共栄の歴史でもあり弱肉強食による淘汰の歴史でもあります。
新幹線が開業すると並行している在来線にあった華やかさは失われる、けれど新幹線からその先に新た需要や残存需要があり華やかさが維持される。それにより新たな需要も生まれれば心得ならずも衰退していく町なり産業もある、栄枯盛衰、あるいは諸行無常。そんな言葉が頭をよぎります。

僕自身が、趣味的な感覚で鉄道に興味を持ったのは昭和50年、新幹線博多開業の年です。この博多開業でそれまで山陽本線を彩っていた在来線の優等列車がほぼなくなりました。僕自身、この博多開業前の山陽路の華やかさには間に合わなかったこともあり少年時代に往時の写真を見ては時代の巡り合わせの悪さに切歯扼腕したもんです。それでも東北本線、上越線、あるいは北陸本線と在来線の華やかな時代を味わうことができ、国鉄の経営状態は火の車だったとはいえ国鉄黄金時代の余燼を味わえたのは幸せな時間でもありました。

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前の世紀の終わり頃だったでしょうか、JRが発足して10年くらい経った頃、兄事していたT先輩と雑談していて「おい、道草、この前、自分はJRタイプの車輌が好きで国鉄型に興味がないって奴にあったぞ。」「そうですか、とうとう、そんな人間が出てくる時代になりましたか。」といった会話をしたのを憶えています。

その頃から四半世紀近く経ちました。もしかしたらもう国鉄好きな人は少数派なのかも知れません。

そしてこの3月、実は国鉄というものがあった時代に区切りをつける月でもあります。
国鉄が一般職員の採用を採用を停止を決めたのが昭和57年、その年に入社された方が定年を迎えJRの現場から国鉄採用の方々が去る月でもあるのです。

もちろん、役員の方には国鉄入社の方もおられるでしょうし所属は変わっても再雇用で現場そのものには未だ国鉄組の方々はいるわけですが、やはりその日が来たか、と思うと自分自身、職業人として国鉄あるいはJRに何か縁があるわけではないですが幾許かの感慨を覚えるものでもあります。

# by michikusajinsei | 2024-03-18 07:15 | 国鉄 特急 | Comments(0)

令和6年 謹賀新年

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みなさま、あけましておめでとうございます。

年始の挨拶のこの文を書くために数年間分の挨拶を読み返してみたのですが気負っていましたね。

「明日があることを前提に生きてはいますし、状況によっては時宜を待たなければいけないことはあります。けれども、やらなければいけないこと、できることを明日に繰り越すことはやめる、これが令和5年の自分にとっての覚悟でしょうか。」

上の一文は昨年の年始に書いていたことです。50代半ばという年代、過去に落とし前をつけることと、先が見え始める将来に向けての二つの焦りが無意識のうちに自分の心の中を支配していたのかもしれません。では今はどうなのか、そう問われれば焦りはないといえば嘘になります。けれども、それ以上に「今、生きていること」の重要さというものが心のうちを占めるようになってきました。

出会う、別れる、再会する。あるいは手にいれる、手放す、また取り戻す。考えてみれば、全てはその瞬間の自分の人生観の到達点での出来事です。思えば生きるということは無数の言い訳を巡らしている時間でもありました。それは失敗してしまった過去だけではなく失敗を先取りした未来に対してもそうです。

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計画することは必要ですし、その中でリスクを想定してそれに対応するための手立てを考えていかなくてはなりません。ただ、そのことと計画や思惑が上手くいかなかったことに先回りして言い訳を心中に準備しておくのは違うと思うのです。論理的に言えば、計画は成長や進歩を前提しています、しかし失敗に対する先んじた言い訳は現時点での限界からの発想でしかありません。組織としては正解なリスクマネジメントという思考も個人の生き様の中では本質的に相容れない思考ではないか、そんなふうに思うようになりました。

さらに言えば、失敗や別れには、そこで味わう喪失感と自分自身の限界を突きつけられることへの恐怖がつきまといますが、その限界に身を置いて呻吟しそこでの足掻きがあるからこそ、違う景色や雰囲気の中での再会や再生の機会や喜びが巡ってくる、そんな風に思えてきているのです。

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ここに自分の考えが行き着いたのはもう一つきっかけがあります。この数年、加速している読書量ですが昨年はなんといっても森沢明夫さんという作家に出会ったことでしょうか。

いつものようにどうして読むようになったかは覚えていませんが、最初に手に取った本は「虹の岬の喫茶店」という幻冬舎文庫の一冊でした。確か夏の盛りの頃だったと思います。その読後感として大きな感動があった訳ではありませんでしたが、別の作品を読みたくなり手にしたのは同じ幻冬舎文庫「癒し屋キリコの約束」という本でした。これが自分の中では決定的でしたね。その癒し屋キリコの約束の中で心に残った一節を引用してみます。

「人ってさ、長所で尊敬されて、短所で愛されるんだよ。短所を必死に誤魔化してどこまでも隠し切ろうとしている人間は愛すべきところまで隠してしまっているのかもしれない」

また、次の一節は彼自身の言葉ではありませんが「ぷくぷく」という作品の解説にあった言葉です。

「私たちは、多かれ少なかれ、誰もなにかしらの欠点を持っていて、それを恨んだり、隠したり、引き出しの奥にしまい込んだりするんだけど、この作品を読んでいると、否定するんじゃなく受け入れることで、欠点は、欠かせない点になっていくんだなぁ。」

欠点という言葉に思いもよらぬ見方があったこと、それは自分自身にとって新たな世界観を得る契機となりました。一方で、その欠点があるが故に手放さざるを得ない現実もまた存在する。その狭間の中で今を生きる自分の成長、それが今年のテーマなのかもしれません。

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今回、選んだ写真は夏の山陰の風景、これは森沢明夫さんの作品には海辺の街の夏の風景が舞台となっているものが多いことから僭越ながらその連想で選んでみました。

令和6年、今年一年のご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

道草人生拝


# by michikusajinsei | 2024-01-03 22:59 | 山陰本線 | Comments(2)

昭和57年 山口線

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ラグビーというスポーツがここ日本で冬の風物詩だった時期がありました。昭和末期、僕が高校から大学にかけての頃ですから昭和56年から平成元年くらいでしょうか。
とりわけ盛り上がったのは大学ラグビー、早稲田慶應明治といった東京の名門私立大学に関西の雄である同志社、名門大学による対抗そして東西対決、このように書くといかにもブランドで盛り上がったバブルの匂いが時代的にも感じられますが、同時代的に見ていた感覚では、そういったエリートの醸し出す雰囲気もありますが、同時に学生スポーツらしい溌剌さと高校野球や高校サッカーとは違った大学生らしい力強さとスピードが見る人を魅了していたのだと思います。

ただ、その学生同士の戦いの後、本当の日本一決定戦が社会人ラグビーとの決戦。そこで学生王者に立ちはだかったのが新日鐵釜石と神戸製鋼という鉄鋼会社のラグビー部。とりわけ新日鐵釜石は華やかな大学ラグビーとは対照的に東北の高卒の若者を鍛えて実力をつけたチーム、鉄鋼会社というただでさえ男臭いイメージに加え、選手たちの表情にいかにも鍛え上げられたという雰囲気が漂いテレビ越しにもなんともいえない大人の実力、迫力を感じたものです。

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その釜石に行ってきました。

と言っても白状すればか釜石目的で出かけたのではなく、身体に溜まった澱を落とすために花巻温泉街の奥にある台温泉に湯治目的で泊まり、合間、どこか未知の土地に行けないか、そんな思いで地図を眺めたら花巻から釜石線が出ていたので、乗ったことがないので乗ってみようか、そんな気持ちで出かけて行ったところです。

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正直、釜石に何か目的を持って行ったわけではなく、書いた通り乗り潰しのような気持ち、ただ到着したのが昼の時分どき、折り返しまで2時間あるので街を散歩しつつ昼飯を食べるところを探すか程度の気持ちで入ったレストランに入り、小春日和の陽気に誘われテラスでの食事、いただいたランチは秋刀魚をフランス料理エッセンスでグリルしたもの。雰囲気の良さと秋刀魚の油の強い癖が風味が残るかたちでオリーブオイルにうまく溶け込んでとても美味しくまずまずの気分で食事を終えました。そして、一息入れて席を立ちお店を出ようとしたところで思わぬ出会いがあったのです。それは釜石の象徴とも言えるラグビーボールとの出会いでした。

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このサインボール、食事を終えて会計をしている時に目に入ったのですが瞬間的に身体が固まってしまいました。そしてテレビ越しに見たあの時の試合風景がまざまざと眼前に蘇ってきたのです。冬枯れの国立競技場の芝生、冬の日差し、観客のどよめきと息遣い、戦況をスタンドで見守る明治大学の老将、北島監督、自分の高校の先輩が一人、早稲田のウイングとして出場したのを興奮して見ていたこと、次々と頭の中に当時の映像が浮かんできます。

思わずお店の方に「これ、あの7連覇の時のサインボールなのですか」と尋ねてしまいました。

最初に声をかけたフロアの若い女性は意味が通じず、それでもシェフに声をかけてくれ、そのお話によるとシェフの義理の父親が当時の新日鉄釜石ラグビー部の後援会長を務めておられ、そのご縁で選手たちからもらったボールが今、自分の手元にあるとのことでした。
「お客さん、ラグビーをしていたんですか」」「いやぁ、学校の授業でやった程度です。でも若い頃に見た新日鉄釜石ラグビー部の活躍は覚えています。とても懐かしいですね。強かったですよね。」
その会話の後、さらに、と話が続き、実は2つあったが一つは震災で流されてしまい、当時、自分はパリで仕事をしていたため難を逃れ、帰国とともにまたこの地に戻ったとのことです。

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このお話を聞いていて、このボールのたどった時間の重みになんとも返答できない自分がいました。かろうじて「そうですか、貴重なボールなんですね」と答えるのが精一杯でした。

けれども、このサインボールに幾許かの感慨を抱く人はさほど多くないのでしょう。シェフとの会話を聞いていたフロアの女性は「お客さんの話だと貴重な物みたいですね。ラグビーなんていつも見慣れている存在だから、今まで全然、気にしたことがなかったですよ。」と言っていたくらいですから。

そのまま会計を済まし「今日は貴重なお話と良いランチをいただいてありがとうございました。」と声をかけるとシェフは笑顔で応えてくれ、そのお店を後にしました。

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今回の鉄道写真は、その新日鉄釜石ラグビー部が強さの盛りであった頃、昭和57年、高校の修学旅行で訪れた津和野で撮影した貨物列車です。まだ風情なんて感じるには若過ぎた頃とった写真ですが、今、見直すと晩秋の雰囲気と山間のまちへ物資を届けるという短い貨物列車の編成の生活感から個人的に印象に残っている写真です。

なお釜石のレストランですがCHEZ MARCOというお店です。

# by michikusajinsei | 2023-12-11 05:53 | Comments(2)

令和5年 大分県(その1)

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今回はいつもと趣を変えて、夏の旅の備忘録。

8月30日に神奈川を出て大阪で先輩と久闊を叙し、その晩は南港から別府まで、さんふらわあでの船旅、翌日はレンタカーで国東半島を切り取るように廻って姫島という小島で宿泊、翌日は福岡で一泊し用事を済ませて9月2日に帰宅という行程だった。

なお、この写真は久大本線豊後森駅に保存されている旧機関庫とこの機関区とは直接関係ないがボロボロの保存状態から美しく整備されてここに運ばれた蒸気機関車9600形。建物は廃墟に近いし機関車も静態保存でしかないが、こうして組み合わされるとどちらも現役感を強く感じさせるのは不思議である。
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実は九州は自分にとって縁が深い土地である。ここ数年、仕事の関係で年に何回か北九州に出張があり、またその縁や、あるいは偶然の機会などから九州在住あるいは出身の知人、友人との交流が増えてくるに従い親近感を覚えてきていたからである。

しかし何よりも縁が深いと感じるようになったのは父方の祖母の出身地が大分県佐伯市にある大入島であることを近年になって知ったことが大きかった。自身の成長の中で祖父母4人と生活を共にできたことは貴重な経験だった。全員、明治末葉の生まれ、父方、母方、男女の順番で出身県を言えば、長野、大分、東京、神奈川である。そして自分とその出身地との関わりについては濃淡はあるがいずれも実家もしくはそれに近い系統がその地に存在して自分自身も身近に感じていたが、唯一、父方の祖母の生まれ育った大分は昭和初期に祖母たちが一家で台湾に移住してしまったせいもあり縁遠く、あまり意識することなく自分自身生きてきた。

ただ、ここ数年、九州との関わりが増えてくる中で、自分の源流の一つがその地にあることを意識することが強くなり、改めて大分という地域を自分で味わってみたいという気持ちから旅行先として選ぶようになったのである。

# by michikusajinsei | 2023-09-09 12:23 | 九州 | Comments(0)

昭和62年 近畿日本鉄道養老線(その3)

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猛暑という言葉はあっても酷暑という言葉はなかった時代、夏という季節は若さと爽やかさという感覚に結びついていた気がします。
8月のお盆の時期、線路端を歩いていると日差しの強さに熱気を感じましたが、一方で夏風がその熱気を和らげてくれて、いくら歩いても苦になりませんでした。

この写真を撮った頃は高校を卒業していましたが、高一、高二の頃、運動部の同級生たちが秋の関東大会を目指して夏合宿に青春のエネルギーを燃やしているのと同じ感覚を僕は犬走りと呼ばれる線路側の小道を歩きながら味わっていたのです。体力の続く限り歩き、そして五感を働かせて誰も見ていない景色を見つけたかった。

正直な気持ちを白状すれば運動部で躍動している同級生たちにコンプレックスを感じていました。それが好きで寝ても覚めてもいい鉄道写真を撮ることに情熱を傾けていましたが、どうしても青春の情熱という言葉で人々が想像する若者の姿とネクラと言われていた趣味に没頭する自分自身の行き方とのギャップになんとも言えない居心地の悪さを感じていたのです。

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しかし人生で初めて自分自身の限界への挑戦することが青春という季節の通過儀礼だったとすれば、良い写真とは何かを追い求める衝動、そのために犬走を歩き続けた日々はやはり青春という言葉でしか表せない人生の瞬間だった、若さの中にあった焦りやいたたまれなさから無縁になって久しい今になるとそれはそれで幸せな時間を過ごすことができていたんだ、そんな風に思うのです。


# by michikusajinsei | 2023-09-03 21:00 | 近畿日本鉄道 | Comments(4)