ラグビーというスポーツがここ日本で冬の風物詩だった時期がありました。昭和末期、僕が高校から大学にかけての頃ですから昭和56年から平成元年くらいでしょうか。
とりわけ盛り上がったのは大学ラグビー、早稲田慶應明治といった東京の名門私立大学に関西の雄である同志社、名門大学による対抗そして東西対決、このように書くといかにもブランドで盛り上がったバブルの匂いが時代的にも感じられますが、同時代的に見ていた感覚では、そういったエリートの醸し出す雰囲気もありますが、同時に学生スポーツらしい溌剌さと高校野球や高校サッカーとは違った大学生らしい力強さとスピードが見る人を魅了していたのだと思います。
ただ、その学生同士の戦いの後、本当の日本一決定戦が社会人ラグビーとの決戦。そこで学生王者に立ちはだかったのが新日鐵釜石と神戸製鋼という鉄鋼会社のラグビー部。とりわけ新日鐵釜石は華やかな大学ラグビーとは対照的に東北の高卒の若者を鍛えて実力をつけたチーム、鉄鋼会社というただでさえ男臭いイメージに加え、選手たちの表情にいかにも鍛え上げられたという雰囲気が漂いテレビ越しにもなんともいえない大人の実力、迫力を感じたものです。
その釜石に行ってきました。
と言っても白状すればか釜石目的で出かけたのではなく、身体に溜まった澱を落とすために花巻温泉街の奥にある台温泉に湯治目的で泊まり、合間、どこか未知の土地に行けないか、そんな思いで地図を眺めたら花巻から釜石線が出ていたので、乗ったことがないので乗ってみようか、そんな気持ちで出かけて行ったところです。
正直、釜石に何か目的を持って行ったわけではなく、書いた通り乗り潰しのような気持ち、ただ到着したのが昼の時分どき、折り返しまで2時間あるので街を散歩しつつ昼飯を食べるところを探すか程度の気持ちで入ったレストランに入り、小春日和の陽気に誘われテラスでの食事、いただいたランチは秋刀魚をフランス料理エッセンスでグリルしたもの。雰囲気の良さと秋刀魚の油の強い癖が風味が残るかたちでオリーブオイルにうまく溶け込んでとても美味しくまずまずの気分で食事を終えました。そして、一息入れて席を立ちお店を出ようとしたところで思わぬ出会いがあったのです。それは釜石の象徴とも言えるラグビーボールとの出会いでした。
このサインボール、食事を終えて会計をしている時に目に入ったのですが瞬間的に身体が固まってしまいました。そしてテレビ越しに見たあの時の試合風景がまざまざと眼前に蘇ってきたのです。冬枯れの国立競技場の芝生、冬の日差し、観客のどよめきと息遣い、戦況をスタンドで見守る明治大学の老将、北島監督、自分の高校の先輩が一人、早稲田のウイングとして出場したのを興奮して見ていたこと、次々と頭の中に当時の映像が浮かんできます。
思わずお店の方に「これ、あの7連覇の時のサインボールなのですか」と尋ねてしまいました。
最初に声をかけたフロアの若い女性は意味が通じず、それでもシェフに声をかけてくれ、そのお話によるとシェフの義理の父親が当時の新日鉄釜石ラグビー部の後援会長を務めておられ、そのご縁で選手たちからもらったボールが今、自分の手元にあるとのことでした。
「お客さん、ラグビーをしていたんですか」」「いやぁ、学校の授業でやった程度です。でも若い頃に見た新日鉄釜石ラグビー部の活躍は覚えています。とても懐かしいですね。強かったですよね。」
その会話の後、さらに、と話が続き、実は2つあったが一つは震災で流されてしまい、当時、自分はパリで仕事をしていたため難を逃れ、帰国とともにまたこの地に戻ったとのことです。
このお話を聞いていて、このボールのたどった時間の重みになんとも返答できない自分がいました。かろうじて「そうですか、貴重なボールなんですね」と答えるのが精一杯でした。
けれども、このサインボールに幾許かの感慨を抱く人はさほど多くないのでしょう。シェフとの会話を聞いていたフロアの女性は「お客さんの話だと貴重な物みたいですね。ラグビーなんていつも見慣れている存在だから、今まで全然、気にしたことがなかったですよ。」と言っていたくらいですから。
そのまま会計を済まし「今日は貴重なお話と良いランチをいただいてありがとうございました。」と声をかけるとシェフは笑顔で応えてくれ、そのお店を後にしました。
今回の鉄道写真は、その新日鉄釜石ラグビー部が強さの盛りであった頃、昭和57年、高校の修学旅行で訪れた津和野で撮影した貨物列車です。まだ風情なんて感じるには若過ぎた頃とった写真ですが、今、見直すと晩秋の雰囲気と山間のまちへ物資を届けるという短い貨物列車の編成の生活感から個人的に印象に残っている写真です。
なお釜石のレストランですがCHEZ MARCOというお店です。