「ツナグ」辻村深月、「赤道 星降る夜」古内一絵、「クロノス・ジョウンターの伝説」梶尾真治、このひと月余りで読んだ本である。
辻村深月、古内一絵は昨年からの読後の余韻で彼女たちの作品履歴から未読の本から探して選んだもの、ただ彼女たちの作品は高校ものが多いので、さすがに高校生活舞台は今の自分にリアルさがないのでそれ以外の作品から、クロノス・ジョウンターの伝説は作者梶尾真治も含めて全く知らない存在だったが、友人のミュージシャンが同作品の舞台に楽曲を提供していることを知ったことから興味を惹かれて手にしたのである。つまり、これらの作品に関心を深めて買ったのではなく偶然に手にしたのであるが、3作品ともに同じ世界観、「ツナグ」と「赤道 星降る夜」は故人の蘇りを通じて、「クロノス・ジョウンターの伝説」はタイムマシーンを使って今の自分達が過去に遡るというかたちで、それぞれ愛をつなげる物語だった。
「これは僕自身に起こったシンクロニシティと言えるのかもしれない」
この3冊の中で最後に読み始めた「クロノス・ジョウンターの伝説」の途中でそう感じた。とはいえ、非現実的な世界線が現れてそのまま自分をどこか別の世界に連れて行ってくれるわけでもなさそうである。ただ、どうしてもそこに暗示めいたものを感じてしまったのである。
普通の社会を舞台にした小説はどうしてもご都合主義の場面があって、それが人間関係の場合もあれば苦し紛れの非現実的な存在の人間を登場させたりすることで、その都合の良さに興醒めすることもままあるが、この3作品を読んで感じるのは、その非現実性を前提とすることで痺れるような切実さ、人を愛する気持ちというものが、より明瞭に浮かび上がり、我々が心の中に隠しているロマンの部分が現れ、そこに身を浸す読書体験が得られることであったように思った。
異性や年齢、関係性を問わず、自分が想いを抱いている人々に対して、その気持ちを伝えることは息をするようにはいかないもの、でもなんとか伝わってほしいという気持ちは思いの強弱はあれど誰にでもあると思う。そして伝わらないどうしようもなさもまた、我々自身の哀しい現実である。その自分自身のやるせなさに対する慰謝の気持ちが、どこかを彷徨って結果的にこの3冊の本をほぼ同時に手にさせたということかもしれない。
今回の写真は神戸三宮駅前に残る昭和戦前のものと思われる地下道出入り口。戦災と震災に耐えて無数の人々の往来を繋いできた通路。過去と今を結ぶ回廊としての地下道出入り口。時代は変わり、街や人々の姿も変わっていく。しかし地下から地上を見上げる通路からの景色や光は案外変わらない。同じく地上から地下を見下ろすときも視野が限定されるためか見える世界の変化はなくただ通り過ぎる人々の風態に時代の移り変わりを感じるくらいである。
ただこの三宮に限らないが地下道出入り口は都市空間においてある種の劇的な転調を体感する数少ない場所でもある。光を求めて階段を駆け上がることもあれば、安息や雨宿りのために地下に潜ることもある。
過去は変わらず存在する。嬉しいこともあったが恥ずかしいことや苦いことの方が遥かに多い。ただ、そのどちらかと言えば思い出したくない過去を生きてきたからこそ、それでも生きてこれたことへの自信から変わることへの恐れもそれほど大きくない。その意味で自分に起きたシンクロニシティめいたものは夢みたいなことが起こることの暗示ではなく、自分の中で世界観の変化を求めていることの発露ではないか、そんなふうに思いたくなった。
人が地下道から見える光に感じる気持ちは今も昔も変わらない、それを現実化するためにはあとは少しの勇気が必要、その勇気を手助けするものはロマン。感傷的と言われるかもしれないが、そんなことを感じた読後感である。