昭和62年冬 釧網本線

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30年前ー昭和末期、バブルと呼ばれた時代、

今、バブルと言うとどうしてもギラギラした欲望がむき出しの時代だったとして語られる印象が強い。確かにそうだった。自分には縁がなかったけど札束が渦を巻いて使われていく雰囲気は感じられた。しかし振り返ってみると。あの時代の雰囲気を特徴づけていたのは、欲望が全開して果てしなく拡大していくような高揚感とは少し違うように思う。なんて言えばいいのだろうか、それを味わうのに僕は若すぎたが、戦後という時代の坂を昇りつめた勝利感だったのではないだろうか。正に戦後日本の夏の盛り、真夏の時代と呼んだ方がいいような気がしてならない。

そういった真夏の熱気の中で若い世代の僕たちは明るくあることが強く求められた。サザンと尾崎豊が若者のそれぞれ表と裏の気分を代表していたが、そのどちらにも同化できない僕は時代の流れから逃げるような気分で目白と神保町界隈を歩き、少しお金が貯まると旅に出た。

そしてまた鉄道界も、そのような時代の風景とは無縁だった。いや、むしろ厳冬期だった。国鉄民営化の直前、旅に出るとあちこちで廃線寸前の風景に出会う。機関区の近くの食堂で昼飯を食べていると壮年の鉄道マンたちがひそひそと身の振り方を相談している。それは鉄道マンだけではなかった。春休み、旅をするとあちこちの駅で夜汽車で旅立つ光景を目にした。卒業式の日で着終わったはずの制服をもう一度着て、ホームに、客車のデッキに、連絡船の甲板に不安そうに佇んでいた。就職のために上京する彼・彼女。みんな僕と同じくらいの歳だ。そのような場面に出会う度にいたたまれなさを感じていた。

出会った車輛達も決してスマートではないし輝いてもいなかった。合理化の旗の下、単色に塗りつぶされたり、美しい大型硝子の前照灯が2灯のシールドビームに改造されたりしている姿は、戦前派車輛にあった端正さ、初期新性能車輛にあった新鮮さに憧れていた自分にとって幻滅以外何もでもなかった。「全然違う!」そう思いながらシャッターを何度切ったことか。でも今、在りし日の彼らを思い浮かべてみるとなんて自分の感想は若かった、幼かった、つくづくそう思う。フィルムに残されている彼らの姿はダサくて武骨だけれども、若い自分には感じ取れなかった力強さに満ちている。

僕が出会った車輛たち、彼らはどのような姿を纏ったにせよ全て昭和戦後という時代を支えた車輛たちである。厳しい予算の中で少しでも快適な車輛にならないかと改造設計を行った技師、新車導入なんて夢にも考えられない中、経年劣化があっても懸命な保守を行う検修、定時運行と言う絶対な命題の中で安全を寸毫も揺るがせなかった運転、そして何かあるたびに乗客の罵詈雑言に黙って耐えていた車掌と駅員。全員、明日、自分がどうなるか判らない中で、それでも自分の職務を全うしようとしていた。そんな男たちが支えた車輛たちである。そういった鉄道人の誇りが、彼らの矜持が、あの頃の車輛たちに無二の個性を与えていたのだと思う。そう、見落としていた。あの頃は戦後を生きてきた車輛の円熟期だったことを。

年が明ければ僕も4回目の年男を迎える。そして振り返れば多感と呼ばれる10代の終わりから30年と言う歳月が経ってしまった。しばらくその頃の自分が撮影した写真をブログにアップしていこうと思う。それらの写真からあの時代に思いを馳せる人がいれば嬉しいと思っている。

# by michikusajinsei | 2014-12-08 07:23 | 北海道 | Comments(0)