昭和61年 近畿日本鉄道(名古屋線&大阪線)

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何回か佐伯勇について語ってきたが、もちろん何か取材したわけではなく彼の事跡から僕個人が想像しただけである。だから真実かどうかはわからない。

実際に同時代人としても彼が近鉄経営の一線に立っていた頃は自分の生まれる前から幼児のころ。だから自分にとって彼の生前のイメージは近鉄の経営者というよりプロ野球近鉄バッファローズのオーナーである。と言っても特にプロ野球ファンでなかった自分にはそれほど強い印象があったわけではなかった。

今回も最初は近鉄特急の格好よさを書くつもりだったのだが、その途中で少年時代に読んだ鉄道ジャーナルの連載で「君よ知るや南のレーサーたち」という野村薫さんの記事があったことを思い出し、そこから近鉄特急網を作り上げた佐伯勇に興味を持って書いたのである。
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だから正直なところ彼に関する知識はウィキペディア程度しかないのだが、そのウキペディアを見ていて気がついたのは彼の就職した年と没年。彼は昭和2年4月に近鉄前身の大軌に入社し平成元年の10月に取締役相談役で逝去とある。つまり昭和時代最初の大卒社会人として入社し、役員として昭和最後の会計年度を終えたところで世を去っている。正に昭和サラリーマンの申し子ともいうべき人生。

その間、企業グループの総帥として近鉄はもちろん、近畿日本ツーリストや近鉄エクスプレス、都ホテルといったそれぞれの業界で大手と言われる会社を育て、また成績はなかなかパッとしなかったが近鉄バッファローズというプロ野球球団まで設立した。

もう凡人にはただ口を開けて呆然とするしかない華麗な経歴である。しかしながらそういった企業人としての側面はそれとして佐伯勇が鉄道ファンであったか、僕はそんなことにもっと興味があるのだが残念ながらそれに関する記録はウキペディアにはない。
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ただ、彼が入社以後に登場した参急2200系、近鉄2250系、ビスタカー、スナックカー、そしてアーバンライナーと看板となる車輌はすべてファン的に見てもセンスが良くて画期となる車輌ばかりである。

最初の2200系はさすがに若くてその登場に関与していないと思うが、それ以外はすべて経営者の一員として彼はデビューに承認を与えている。これらの車輌たちを見ていると彼が作り上げた近鉄車輌群は規模はもちろんだが質的にも同時代最高峰の電車である。何よりも特筆すべきことは一時代で終わらず更新毎に時代を画し長期間に亘って国鉄も含めて当時の他鉄道会社を圧し続けたことだ。

その意味でも彼の率いた頃の近鉄は正に日本一の大私鉄にふさわしい品格を企業集団としてだけではなく看板車輌そのものに具現していた。そしてそれは車輌プロデューサーとしての彼の卓越したセンスによるところであろう。マニアックな鉄道ファンというわけではないだろうが、鉄道車輌のデザイン&コンセプトによく通じていたという点で鉄道愛好家の視点は相当持ち合わせていたのではないだろうか。

会社を発展させることでまず社員を豊かにし、沿線開発を通じて利用者の便益を向上させ、さらにシンボリックな車輌を生み出すことで企業イメージの向上のみならず多くの鉄道ファンに夢を与えてくれた。

佐伯勇-鉄道事業者として本邦随一の存在である。

by michikusajinsei | 2016-05-28 14:32 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和61年&62年 近畿日本鉄道(大阪線&南大阪線)

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こじつけもいいところだが、電車の顔というのもある意味、社会的な時代を反映しているように思っている。

例えば昭和戦前の車輌は、電車にしても客車にしても端正でプロポーションは素晴らしいのだが、どこか近づき難い印象をもつ。

牽強付会と言われるのを承知で言えば、制服の凛々しさ、はっきり言えば軍服の持つある種の端正さ無縁でないように思う。
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対して戦後派の車輌に感じるのはまず泥臭さだが、一方でそれが生み出す逞しさはそれはそれで経済成長に向けて躍進する経営者、労働者それぞれの押し出しの強さを感じてならない。
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その代表格が国鉄72系と一つ飛ばして103系だと思うが、私鉄の同種の車輌たちにも同じ匂いがする。

残念ながら僕には近鉄の車輌一つ一つの歴史や特徴を語る知識を持ってないが、改めて30年前の普通型車輌を見ていると、一見型代節約のような同じシルエットの車輌と思っていたがどうしてどうしてなかなか味わい深い。

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そう塗装じゃなくてシルエットで魅せる、それが鉄道車輌の伝統的なデザイン感だし、それの典型がこの頃の近鉄車輌のように思えるのだ。

何一つとして尖った部分はなく、おでこの2灯ライトにしても、幌にしても、またややアンバランスな大きさを感じさせる正面の窓にしてもそれだけとると泥臭い。

それは保守的といえば確かにそうだが、結果的にはその鉄道の色合いを強く印象付けていたように思う。

下の写真にみる新旧車輌も、デザイン傾向は全然違うが、上にあげたようなパーツは継承されている。

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それらが集合してデザインされた電車1台は野暮のようでいて、不思議な風格があるように感じられてならない。中距離電車のもつ重厚感と言えばいいのか、特にマルーン一色の旧型塗装にそれを強く感じたものだった。

by michikusajinsei | 2016-05-25 00:04 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和61&62年 近畿日本鉄道(大阪線 & 名古屋線その3)

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しかし予算第一主義が通用するのは、あくまでも平時。危機的な状況でそれは全くの足枷となる。多くの場合、それは時間が勝負の世界であるが、その時に予算という制約の中でお金を出し渋っていては復旧なり被害の最小化の好機を失ってしまいかねない。

かと言って、プロジェクトマネージャーがなにか手を打ちたくても、多くの場合、必要な対応策のリソースは彼らの裁量を超えている。といよりどのような対応策をとるべきからして手につかないのが普通なのではないだろうか。結局のところ、彼らの責任と権限は予算の範囲内に終始する。そしてその予算はある程度のContingency(予備費)が見込まれているのが普通だが、伊勢湾台風のような巨大災害による不通といったことなどまでは想定されていない。

正直言ってお手上げである。

そして佐伯勇のリーダーとしての凄みは、まさにその瞬間に発揮された。経営者として危機に最大限のコミットを行ったのである。
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今歴史を振り返ってみると、ややもすれば我々はまるで台風を契機として改軌工事を早めたのは必然だったかのように語るかもしれない。しかし、そうではなかったのではないか。これは我々が想像するよりも相当なリスクだったのではないかと思う。

今も昔も鉄道のような社会インフラ運営企業は公営にしろ民営にしろ動きを止めないのがまず求められる。そして不幸にもそのような事態が出来した場合、最短期間でとにかく再開することが何よりも求められている。
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一方、改軌工事はどうか。確かにサービス向上に繋がる工事ではあるが必然性があったわけではない。いや私企業としては必然性があったと思うが、社会的には(もちろん歓迎される事態ではあるけど)必要不可欠であるとまでは言えない。なぜなら、それでも機能はしていたからである。有り体に言えば収益向上のための施策であって安全性の向上工事のようなものではない。

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そういう状況であれば、まずは現状での復旧を優先させるべきだという圧力があってもおかしくなかったと思う。

しかし、佐伯はそのような非難がでるかもしれないことは承知で難易度の高い道を選んだのではないか。逆に言えば、だからこそ最短でこの工事を終わらせなければならない。改軌工事にまつわる話の冒頭にも書いたが、納期短縮というものはそう簡単にいかない。まして巨大災害の復旧工事でもある。

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復旧工事、復興工事というものは確かに目標に向けて作業にあたる人間の集中力・士気を短期間であれば高めやすいし、同じく短期間であれば周囲にも多少の不便を我慢してもらえる。ある意味、施工するタイミングとしては悪くなかったかもしれない。ただそれも程度問題である。長引けば、必ず上に書いた非難が起きるし、それ以上に会社の経営への打撃が深刻となる。何としても通常の復旧工事と遜色のない期間で終わらせなければならない。しかし、それに関わる工事施工上の制約は想像以上に大きかったのではないか。

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台風被害は範囲の大きさはあるが局地的災害ではあるので、資材自体の手当ては全国にあたれば何とかなったかもしれない。

しかし、それは何処にあるのか。想像であるが犬釘一本、貴重だったのではないか。通信事情だって今とは全く違うので、迅速に在庫が見つけるのは難しい。また仮にあったとして、それの供給ルートはどのように確保できたのか。道路だって寸断されているはずである。
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現場も同様であろう。改軌工事はもともと施工中であったので図面はできていただろうし、現場の作業手順も決まっていただろう。しかし新設部分と復旧部分が入り混じり設計変更やら工事の段取りも錯綜しただろうし、災害で使えなくなった重機類もあったはずだ。

そして何よりも、近鉄社員および協力会社の方々の心情である。
彼らもまた災害の被害者である。本来であれば自分の家庭を守ることに注力したかったと思う。そんな中、社員はまだしも協力会社の作業員はきちんと集まるのか。

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全てにおいて、復旧工事と改軌工事の同時施工はリスクが大きすぎる。
それでも佐伯勇は決断した。二兎を追う、と。

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恐らく彼には、自分は誰よりも自社のことを隅々まで知っているという強い自負があったのだろうし、何よりも自社の社員に対し自分がきちんとバックアップすれば彼らは必ず期待に応えてくれるはずだという深い信頼があったのだろう。

名古屋線の改軌。

それはリーダーの意志と指導力の強さが遺憾なく発揮され、それに応える質が高く責任感の強い現場が存在し、その二つが噛み合って成り立った戦後鉄道史の輝かしい金字塔ではないだろうか。

by michikusajinsei | 2016-05-19 23:46 | 近畿日本鉄道 | Comments(2)

昭和62年 近畿日本鉄道(南大阪線5&道明寺線)

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もちろん魔法のわけがない。

これはその数年前から始まっている事業なので、工事自体は基本的には設計も工法も改軌計画に則って行われたものであろう。しかし、かといってこの偉業ともいうべき短縮は平時の感覚でそれを行ってとうてい到達できるものではない。

どうして、それができたのか。
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それは一言で言えば平時の心理を脱却出たことである。では、その平時の心理とは何か。

思うにそれは予算第一主義という思想である。
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どんなプロジェクトであれ、予算と納期はつきものだが始まってみると問題になるのは、まずは予算である。もちろんお客さんの前ではよほどのことがない限り「お金がないからできません」とは言わず「納期死守」という顔をしているが、いざ身内に戻れば優先されるのはお金である。とにかくなるべく金を遣わずに納期を守りプロジェクトを進めるのが求められる。これはもちろんトラブル発生時においても同様だ。いかに金を遣わずに、そしてお客さんの信用を失わずにプロジェクトを仕上げるか。
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プロジェクトマネージャーという人に課せられた任務は煎じ詰めればそんなものである。

予算とスケジュールを天秤にかけながら、なるべく支出を抑えてプロジェクトの運営を進めているのが彼らの日常だ。

by michikusajinsei | 2016-05-17 22:02 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和62年 近畿日本鉄道(南大阪線4)

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佐伯勇を語る場合、名古屋線の改軌を避けて通る訳にはいかないだろう。

改軌工事そのものも大事業であるが、伊勢湾台風による復旧作業の一環で残りの区間を一気に施工し半年間残っていた作業を僅か2ヶ月で完工したことは本当に驚嘆する。

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僕も鉄道とは性格が違うが同様に複雑な設備で運転される施設を建設する業界に勤めているのだが、とにかく納期を守る、それですら精一杯なのが普通である。工事計画と実際の進捗とのずれの修正、それに合わせた作業員の動員計画と確保、資材の納入状況から不足分の追加、などなど。どれをとっても一筋縄でいかないものばかりである。
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それを週ではなく月のレベルで成し遂げたのだから、一体、どんな魔法を使ったのだろうかとまで思ってしまうのが正直なところである。


by michikusajinsei | 2016-05-15 09:09 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和62年 近畿日本鉄道(南大阪線3)

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今まで事業の成長性を見抜くという視点で見た佐伯勇の経営力を語ってきたが、彼にはもう一つの側面、危機に対して果断な実行力を発揮した事態があった。a0322896_14422902.jpg
















名古屋線の改軌

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この事業自体、大きな決断だが、何よりも伊勢湾台風の復旧作業で見せた彼の手腕こそは、彼のリーダー、或いは指揮官としての凄みを感じさせるに相応しい。

by michikusajinsei | 2016-05-14 13:19 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和62年 近畿日本鉄道(南大阪線2)

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前回述べた佐伯勇の観光特急ネットワークは、友人から小田急と何が違うの?時代的にも観光優等列車は小田急の方が早いんじゃないか。またSE車だって時代を画する衝撃はビスタカーに勝るとも劣らないものがあったんではないか、と言われた。

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ごもっともな指摘である。

観光地への優等列車は、開通早々の昭和4年に東京行進曲で「いっそ小田急で逃げましょか」と歌われ、家族の慰安だけではなくnon-businessの最たる駆け落ち或いは不倫旅行で大いに使われたことが想像される小田急の代名詞。それは近鉄或いは佐伯勇の独創ではない。
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思うにスナックカーと共に築き上げた近鉄王国の独創は名古屋・京都・大阪の3地点からの回遊性にあるのではないか。

小田急は箱根、東武は日光。その狭いエリアでの回遊性はもちろんあるが、基本的には点と点の往復で完結する。もちろんそれはその鉄道の性格だから、それをどうこう言うわけでは無い。
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その鉄道固有の性格を把握し、その特徴を、潜在力を、どう開発するか。確かに小田急も東武もヒントにはなったかもしれない。

しかし、近鉄という営業路線が長くてかつ拠点が分散している鉄道で小田急勝利の方程式は単純には適用できないであろう。意識の点でも、その直前まで国鉄と真っ向の速達性を競った血みどろの勝負を演じたわけなのだから。

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その名阪間輸送がなくなってみると長大なローカル線が点在するだけの図体の大きいローカル私鉄に堕ちてしまうかもしれない、佐伯勇にはそんな危機感があったのでは無いか。

そして、その危機への起死回生の回答がスナックカーの大量増備とそれを用いた大和伊勢志摩そして吉野路への観光特急ネットワークであったんだと思う。

またそれは、一旦は自分を追い詰めた新幹線があってこそ機能するネットワークである。

正面からがっぷり四つで相対する、そして、それが叶わぬと状況となるや、今度はそれを奇貨として活用し全く違う方向で需要を創出する。

佐伯勇、まさに稀代の鉄道経営者と言う他はない。

by michikusajinsei | 2016-05-10 22:03 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和62年 近畿日本鉄道 (南大阪線、その1)

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昭和60年前後の近鉄はクリームとマルーンの2色塗装へと更新を急ピッチで進めていた。だからかもしれないが残されていた旧塗装の車輌はなんとなく艶を失っていたような印象を持っていた。

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その中で、最も美しい旧塗装を維持していたのはこの車輌だったのかもしれない。

実はこの車輌の来歴は知らないのだけれど、ヘッドライトをシールドビーム2燈化した以外、原型をそのまま保っているように思える。
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斜光に輝くリベットの列とイコライザー付きの台車、まるで戦前がそのまま立ち尽くしているかのような姿である。営業用車輌ではないし特に保存車というわけではないだろうが現役車輌に負けない光彩を放っていた。
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もしかしたら現場は決められた日常の作業で整備していただけなのかもしれない。しかし、特に利潤を生み出すわけではないこういう車輌がごく自然に綺麗な姿で維持されていた、そういう事実に振り返れば今と違う昭和という時代の大私鉄の余裕を感じてしまうのだ。



by michikusajinsei | 2016-05-08 22:25 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和61&62年 近畿日本鉄道 (名古屋線&大阪線その2)

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間もなく開催される今年のG7、場所は日本の伊勢志摩、そして会場は志摩観光ホテルだそうである。伊勢志摩は近鉄グループの天領、そして志摩観光ホテルはそのシンボル的な存在。いわば近鉄グループが影のホストとして今年のG7を仕切るのである。すでに亡くなって久しいが、もし生きてこの報を聞けたら佐伯勇は殊の外喜んだのではないだろうか。何と言っても伊勢志摩を観光地としてプロデュースしたのは彼が率いていた頃の近鉄だからである。
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少し前になるが、丸一日、ある上場企業の基幹製造子会社の社長に丸一日くってついて取材というか勉強をしたことがある。その社長は多忙にもかかわらず若輩の我々に色々な話をしてくれたが一番印象に残っているのは社長の役目ってなんですか、という問いに瞬発を入れず「ある程度の規模の会社は社長の能力で日々の動きが左右されることはない。いなくたって平時は会社は機能する。だから社長の役目は5年後、10年後のメシのタネを探すこと、それと大波に襲われた時に変化に対応する姿勢を見せることだな。」と答えてくれたことである。

僕は佐伯勇に感じるのは正にこの2点、将来展望の構想力と変化への対応力である。見方を変えれば現状に対する正しい危機感のもち方ということだと思う。
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自分もそうだが、よほど景気が良いか正反対にとてつもなく悪くない限り、我々凡人のサラリーマンは漠然とした不安感を抱えてはいるが、それが今そこにある危機として捉えていない。だから事態が急変するや途端に右往左往してしまう。

これを戦後の近鉄に当てはめてみるとどうか。管見では転機はいくつかあるが最大の転機は東海道新幹線の開通だったのではないか。何と言ってもドル箱の名阪特急の存続を危うくする存在が登場したのである。しかしその脅威をもって実は最高の果実をもたらしたのはそれを契機に構築した特急網である。そしてこれは有る意味鉄道経営史に残る革新的事業だったと思う。

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国鉄が東海道新幹線で目指したのは東名阪間の速達化である。というより鉄道事業の思想は新幹線に限らずその基本は今も昔も起点と終点の最短化である。それは近鉄においても変わらない。だからこそ名阪特急のサービス向上で国鉄に挑んでいたわけだ。

しかし東海道新幹線の開業は近鉄にとってそれまでのドル箱たる名阪特急の地位が危うくなる非常な脅威となる出来事である。そしてその危機に対する近鉄、そして佐伯勇の回答が沿線観光資源の開発による観光特急網の構築であり、その主役となったのがスナックカーだと思う。

前回、阪急以下インターアーバン系の私鉄が生活産業をいう切り口で面を押さえていったのに対し、大鉄道はそれができない故に鉄道本体の付加価値向上に意を注いだと書いた。もっとはっきり書けば、阪急以下は沿線に住んでもらうことに最大限の努力を払い、対して近鉄は乗ってもらうことに意を注いだんだと思う。その思想はスナックカーによる観光特急路線でも変わらない。

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しかし新幹線と万博が掘り起こした民族大移動と呼ばれる空前の観光需要に着眼し、新幹線を降りた観光客を全て自社に誘導するかの如き特急網の構築。そしてそれは結果として名阪間にある大和路と伊勢志摩における近鉄の面の支配を完成させた。

新幹線の開通をライバルの進化でなく活用すべき存在と捉えそれまでの点と線の強化からの鮮やかな転身、そしてそのスケールの大きさ、また世界に類例の少ない有料特急のフレキシブルな運用とそれによる増収。もちろんそれにはホテルや旅行そのものの手配も含まれる。
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そう佐伯勇の施策は40年後、50年後のJRのみならず世界各地の鉄道(だけではないかもしれない。運輸観光全般なのかもしれない)事業者が目指している道である。それを彼は結果として殆ど独力で構築している。

重複するようだが点と線の強化が至上命題でそれは喫緊の課題として強化しなければならない。それはそれで世界初の2階建電車であるビスタカーの就役などで対応している。短期的にはそれも印象的な事象だ。しかし東海道新幹線の開業は事実として自分たちの目睫にあってその脅威は計り知れない。そういう経営課題に対する回答として佐伯勇の対応は鉄道の長所を最大限活かしたこれ以上ないものだと思う。そしてその延長線上の成果として彼が手塩にかけた観光事業の地が遂に世界の桧舞台の会場に選ばれるまで到達したのである。

墓碑銘としてこれ以上のことはないのではなかろうか。

by michikusajinsei | 2016-05-05 23:20 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)

昭和61&62年 近畿日本鉄道(大阪線&名古屋線)

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私鉄経営者としてあるいは電鉄経営者としてと換言しても良いが、その中で最も人口に膾炙していると言えば、阪急グループの創設者、小林一三だろうか。そしてその弟子筋に当たる五島慶太と彼のライバル堤康次郎。この3人はそれぞれの生涯そのものがドラマチックで一企業の経営者を超えた存在として幾多の物語の題材となっている。

その物語の部分は措くとして何よりも経営者として彼らは電鉄経営を点と線の移動ではなく、エリアとして、つまり面として捉えそこで生活が完結する世界を創造した。小林一三は更に宝塚の創立者として文化人の風貌もそこに伝えている。今風の言い方で言えば鉄道事業者と言うより生活産業の創造者として記憶されるべき人物たちなのかもしれない。また彼らの一生は雌伏と飛躍が激しくドラマチックでそれもまた人々の興を誘うのだろう。

とはいえ小林一三は銀行から、五島慶太は役人から、そして堤康次郎は政界から、いずれも言ってみれば転身組である。だからこそ新鮮な視点があったのかもしれないが、正直なところあまり鉄道事業の経営者という匂いはしない。率直に言えば鉄道会社ではあるが鉄道が主役ではなく不動産の活用が主役なのである。もちろんそれに文句をつけたいわけではない。彼らは確かにそこに我々凡人が見えない世界を見出し需要を創造したのだから傑出した事業家である。しかし僕は鉄道ファンである。やはり鉄道の可能性を事業として追い求めた経営者の方に肩入れしたくなってしまう。

そしてそれはどういった人たちであろうか。
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佐伯勇、根津嘉一郎、土川元夫。

それぞれ日本の三大私鉄である近鉄、東武そして名鉄の中興の祖といわれる経営者である。企業集団としてみれば阪急、東急、西武と比べると地味な印象を与えるが、僕は彼らこそ鉄道会社の経営者としてはその前の世代の3人よりも傑出した存在だと思う。

或いはそれは個性よりも世代の影響が多分にあるのかもしれない。電鉄経営草創期の小林以下19世紀生まれの経営者たちは明治末から大正にかけて電鉄事業が脆弱であるが故に、それ以外の手段で収益を確保しなければ会社そのものが立ち行かないという危機感があった。そしてそれへの回答が不動産の活用による面の支配。エコシステムといえば聞こえが良いが早い話が囲い込みである。

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対して20世紀生まれで経営者としては戦後派に属する彼らは鉄道事業が安定した後にエリートとしてそれを伸ばすためにそれぞれの会社に入社してきた人間である。草創期の3人は事業として私鉄を選んだのではなくたまたま巡り合わせでその会社経営の任に当たることとなった。それに対し20世紀初頭に生まれた3人は、いずれも帝大を出て鉄道を運営している会社を選んで(世襲の根津嘉一郎は必然だったかもしれないが)就職しているわけである。そういう出自の違いがまず意識として違うだろう。

さらにまた、面で押さえるには彼らの鉄道は大きすぎた。だからこそ彼らは鉄道事業の本分である点と線の移動に付加価値をつけることに腐心した。僕にはそう思えるのだ。
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ビスタカーにパノラマカー、そしてDRC。ビスタドーム、前面展望席、全室1等。どの車輌も競争相手の国鉄に負けない車輌を作るために造られた。そして国鉄では絶対に実現し得ない特色を持った車輌たちである。これらの個性豊かな車輌を見るにつけ、良き競争相手だった国鉄車輌の存在は堅実さという点では一日の長があるかもしれないが華やかさという点では見劣りするのは否めない。その意味で正に戦後鉄道の黄金時代は彼らを中心とした私鉄によって作られたと言っても過言ではない。

思うのだが、それは国鉄が彼らにとって単に就職した会社のライバルとして存在していただけではなく同じ帝大出のエリートとして同窓の鉄道省に入省した連中がライバルであったことも影響したのではないか。何事も序列をつけたがるエリート社会の中で私鉄はローカルな存在。やはり頂点にいるのは鉄道省や国鉄である。しかしそれが何ほどのものか。ローカルな存在ではあるが自分たちが選んだ道はそこである。少なくとも国鉄と競合する路線だけは全国区の彼らに負けたくないという気持ちというか意地も少なからずあったのだと思う。

実は今回の近鉄シリーズは今日で終えるつもりでしたが、彼らのこと、別して佐伯勇をもう少し書きたくなったので本線である大阪・名古屋線から路線を変えて続けます。



by michikusajinsei | 2016-05-03 22:02 | 近畿日本鉄道 | Comments(0)