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平成22年 新東京国際空港

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6年前のこの日、成田空港からシンガポールへと旅立った。関連会社への出向だったけど、日本人の同僚で知っている人はほとんどいなかったし現地で同僚となるシンガポール人は誰一人知らない。また日本を出る事情も複雑なものがあり随分と心細い気持ちで成田空港の出発ゲートで時間を待っていた記憶がある。

成田空港、僕の人生で少なからず感慨がある場所である。

初めて使ったのは昭和63年、アルバイトで貯めた金を使ってのヨーロッパ旅行、大韓航空である。そして就職してからは海外プロジェクトに関わることが多かったため、何度もこの空港を利用した。

日本全体の勢いというのは昭和の終わりとともに終わった。今振り返れば寂しいけど事実である。そうはいっても平成の初期はそんな雰囲気は全くなくてすこし停滞しているけどまたもとの成長路線が続くように思っていた。海外出張に行けば、日本ブランドの製品は溢れていたし派手な広告もたくさん打たれていた。

そんな中で開業した成田の第二ターミナル。初めての海外勤務を終えてインドネシアから帰ってきた時に目にした時の印象は今も鮮やかである。日航DC10から降り立ちボーディングブリッジを抜けて振り返ると窓の外に群れをなすようにして飛行機が駐機している。第一ターミナルはもちろん他のアジアの空港にないその壮大なスケールに感嘆したものだった。

しかし、時は移るものである。「道草人生、この6年でどんなことが変わったと思う?」たまにそう聞かれる。答えはその時の気持ちや聞かれた人により変わることもあるが目に見えて変わったなと思うのは成田空港の凋落である。平成22年 新東京国際空港_a0322896_20024986.jpg













すでにもう6年前は巨大空港が乱立するようになって成田のスケール感はさほど感じなくなっていた。しかし空気はまた別で日本の玄関としての風格が感じられたし、また行き交う人も多様で華やかな雰囲気に溢れていた。

しかし、昨年の11月に所用で帰国した折、久しぶりに成田空港に降り立って感じたのはなんとも言えない寂しさである。とにかく閑散としている。レンタル携帯ショップも土産物屋もとにかく人が少なくて店員は手持ち無沙汰でなんとも言えない弛緩した空気が漂っていた。そして羽田空港の便が年を経るごとに良くなっていく。もう成田に栄光の日は戻ってこないのだろうか。

これらの写真を撮って1年も経たないうちに日本航空は破綻した。そしてその再建の過程で往時の日航国際線の象徴であったジャンボも売られ今はない。何よりも、この後すぐに羽田が国際線の再就航を始め表玄関の地位を奪っていった。

僕は羽田が再国際化してすぐに利用したが、発着案内には、見事に東アジアの各都市が並びしかも頻繁に就航していた。ある意味、アジアからの旅行者、資本が溢れるインバウンド景気と呼ばれる現在をまるで予期していたかのような案内板に瞠目したのである。国内から国外へ、そしてまた国内へ。そいった点からも国際線専門の成田から両者を備える羽田への玄関の交代は必然だったのかもしれない。

成田がもっとも華やかだった時代、それは国内の経済成長に陰りがみえ始めたころと重なる。国内需要の低下と円高は多くの企業に海外拠点の設立や拡大を促した。国内経済・産業の空洞化が声高に叫ばれた時期である。当然ながら多くの企業人が海外へと向かい、その玄関として成田は殷賑を極めた。皮肉なことに、国内の空洞化が進み、投下した資本による周辺部が太くなればなるほど成田空港は輝いたのである。

今は成田国際空港が正式名称だか、その頃の成田の正式名称は新東京国際空港だった。地元の方には失礼だが、東京という名前を掲げていた時が最盛期、偶然としか言いようがないが、成田を正式に名乗るようになってから徐々に輝きを失っていた、そんな印象が拭えないのである。

成田が表玄関として君臨していた20世紀末葉。それは丸々僕の20代から30代の大半、青春後期と重なる。そして今の僕は初老を越え中老と言われる年代になってしまった。学生時代とは別の意味で無我夢中だった時代、それはそれで振り返ると様々な思いがある。今回、あえて題名を新東京国際空港としたのも、感傷と言えばそれまでだがその時代のイコンとしての成田へ愛惜を感じる気分があったからだ。

何気なく撮した写真であるが、往時の空気を伝える、そして撮した当時の自分の心境が蘇ってくる個人的にはとても大事な写真である。




by michikusajinsei | 2016-02-24 21:19 | シンガポール | Comments(2)

Commented by シグ鉄 at 2016-02-26 16:02 x
私が小学校に入る前ですから53,4年前、父がサンフランシスコに赴任しました。
その頃はまだ、海外に自由に渡航できる時代ではなく、羽田空港には我々家族、大勢の社員が集まり、デッキから旗を振って見送った記憶があります。
従って、私は国際空港と言えば羽田の世代です。

私自身はほとんど海外と縁のない人生を送りましたが、学生時代からクルマを乗り回していたので、成田までちょくちょくアッシーに使われていました。
ご承知の様に、成田はいろいろな問題を抱えながら開港したので、当時は検問でチェックされました。
その後、東京を離れたこともあり、成田に関しては”なんだかなあ”という感情が未だに続いています。

で、このダラダラした文をどうやってまとめるべきか・・・
羽田発7時50分、北ウィングとそれぞれ名曲があるということで、ここはどうかひとつ。
Commented by michikusajinsei at 2016-02-26 19:59
シグ鉄さま、コメントありがとうございます。

私も昭和45年に父親が初めての海外出張で羽田から飛び立った時に見送りに行きました。もっとも自分はまだ幼児ですからほとんど記憶に残っていませんが、昭和40年代は一般人でも海外渡航といえばみんなで見送りに行く時代だったのですね。

本文にも書いた通り個人的な愛着という意味では成田の方に思い入れがあります。ただ一方で自分も僅かながら東京国際国際空港時代の羽田を知っていたという郷愁もありました。

羽田が唯一の国際空港としてあった時代、そして日本を離れることが冒険だった時代、その頃の別れを歌ったはちみつぱいの名曲「塀の上で」

誘導灯が流し目くれて、広告塔が空に投げキッス
羽田から飛行機でロンドンへ、僕の嘆き持ってお嫁に行くんだね。

上に書いた青春後期、自分自身は成田を利用しながら一方でこの曲をよく聞いていました。自分自身が羽田で感じることができなかった70年代の空気感を求めて。